ロバート・フリップ「白鳥の湖」を踊る

ロバート・フリップ 「白鳥の湖」を踊る
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ロバート・フリップ 薔薇の花をくわえてタンゴを踊る 
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ロバート・フリップ 蜜蜂になって走り回る
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いずれもトーヤのフェイスブックより。amass.jp経由で知った。蜜蜂は4月10日、タンゴは4月19日、白鳥の湖は今日のアップである。だんだん凝ってきているようだが、次はいったい何をやるのだろうか。

アヤナミとぞうさん

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戒厳令の中でも、わが家近くのブックオフは果敢に店を開け続けている。今日はそこで上 ↑ のようなCDを買った。クレジットによると1975年のレディングフェスティヴァルでの録音らしい。"Last Bundle"とはいうもののアラン・ホールズワースはもういなくてギターはジョン・エサリッジだ。いかにも真夏の野外公演らしいゆるゆるの感じの演奏が心地いい。

6曲目の"The man who waved at trains"の途中で「とってもいいですか」「お前勝手にやるなよ、みたいなこと言っててさあ、それで俺がさあ」というような、明らかに日本語と思われるものが聞こえる。どうやら日本人がイギリスで恥をさらしているようだ。イギリス人に向かって「とってもいいですか」って日本語で聞いても仕方ないと思うのだけど……。いやでも、こういう無謀なことをする若者がいたおかげで半世紀近く前の演奏が聴けるのだから、ありがたいといえばありがたい。

いやそんなことよりこのCDの左端に注目だ。”Ayanami Ultimate Series”と書いてある。ブートレッグ界は魑魅魍魎が跋扈しているけれど、ついにアヤナミまで出るようになったのか。不覚にもこのレーベルは今まで知らなかったが、Discogs.comで調べてみると、いろいろ面白そうなものをリリースしているのがわかる。

驚くのはアンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウの1990年横浜公演のセットリストだ。見てのとおり「危機」のあとに「ぞうさん」とある。あの緊張感あふれる「危機」のあとでジョン・アンダーソンが「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」と歌ったのだろうか。まああの人の天然ぶりならやっても不思議ではないけれど、聴衆はさぞ脱力したことだろう。

小説がヘタなわけではない

ゴーレム (白水Uブックス)

ゴーレム (白水Uブックス)


念のため見たら白水Uブックスの『ゴーレム』も今は電子書籍でしか売っていない。しかしこの本は何度か版を重ねたのではなかったか。『ゴーレム』といい『ワルプルギスの夜』といい、マイリンクの小説がオカルト文献でなく小説として読まれるようになったのは喜ばしいことだ。40年くらい前と比べれば隔世の感がある。

しかしマイリンクの作品が小説としてあまり読みやすいものではないのは否定しがたい事実だと思う。それは必ずしも作者の神秘思想のためではない。文章がうまいとはいいかねるせいでもない。たしかにマイリンクの文章はちょっと小栗虫太郎を思わせるアレなものだが、それはおそらく(小栗の場合と同じく)作者が見ているヴィジョンがあまりに鮮やかなせいで、文章はそれを後から追いかけて描写するしかないためだろうと思う。

拙豚の見るところ、マイリンクの読みづらさの本質はミハイル・バフチンいうところのポリフォニー的構成だと思う。英仏流の端正な小説を読みなれている人には、あの焦点の定まらない筋運びが異様なものに映るのでないか。弁護するわけではないが、けして小説がヘタなわけではなくて、あれはああいう小説で、ああいう小説の書き方もありなのである。

そういう意味で、今マイリンクがある程度(国書税が厳しい初刷が売り切れるほどに!)受け入れられているのは、伏流として、光文社の古典新訳文庫で出たドストエフスキーが大ヒットを飛ばしたことが少しは関連しているのかなとも思う。まったく根拠のない臆測ではあるけれど、あの大ヒットによって、ポリフォニー的なものを受け入れる下地ができたのではあるまいか。

マイリンク品切増刷未定

 国書刊行会のサイトで『ワルプルギスの夜 マイリンク幻想小説集』がいつのまにか品切増刷未定になっておりました。ということはたぶん初刷分を売り切ったのだと思います。お買い上げくださった皆さん、ありがとうございます。

 とはいえ、まだ取次には若干在庫があるらしく、紀伊国屋書店hontoでは注文可能のようです。もちろん店頭在庫もあちこちにあるとは思いますが、このご時世で店を閉めているところが多いのが痛い(とくに国書の本が置いてあるような大書店の場合)。

 それにしても十年近く前に出た『夜毎に石の橋の下で』がまだ生きているのに、マイリンクがなぜ……。おそらく山尾悠子さんの帯文が効いたのでしょう。日本SF大賞授賞式を欠席したことが今さらのように悔やまれます。お礼を言う機会を逸してしまった!

少女とテレパシー


宮部みゆきから好きな作品を三作、と言われれば『火車』『理由』『模倣犯』それから別格として『ステップファーザー・ステップ』を挙げたい。たぶんこれは大方の評価とそんなに変わりはないだろうと思う。

なかんずく好きなのは『理由』で、『火車』と『模倣犯』はテーマの陰惨さゆえに一度読むと二度と読む気になれないが、『理由』だけは折にふれて何度も読み返している。これら三作はいずれも「闇」と「光」の対決であるが、『理由』では光が闇に勝っている気がする。

とはいうものの初読の印象はけして良くなかった。(ミステリ的には)単純な事件が、関係者がやたら逃げ隠れるせいで、意味もなく複雑になっていると思った。特に某登場人物の場合、その場で警察に連絡すれば正当防衛で無罪になる公算が強いのに、なぜ関係ない人まで巻き込んで雲隠れするのか。

ということで「なんだかなあ」と思っていたのだが、朝日文庫版で再読するに及んで印象ががらりと変わった。まあ人間というものはあせると理性的な行動はとれないもので、ほとんど無意味な逃げ隠れはその意味ではリアリティがある。また細部にいかにもミステリらしい趣向があるのも、再読してはじめてわかった(たとえば冒頭になにげなく出てくる部活動ズル休みの真相(?)が、最後の最後になって判明するところなど)。

特筆すべきは語りの様式の独創性である。疑似ドキュメンタリーというか、何者ともわからないインタビュアーが、関係者に次々とインタビューしていくという形式で物語は進んでいく。これがすでに偉大なる発明だと思うが、さらにすばらしいのは、少年少女にかぎっては内面描写がなされているところだ。あたかもインタビュアーは少年少女とだけテレパシーで心が通じ合っているようである。そして大人は内面が不可知の存在であり、かろうじてインタビューという形によってのみコミュニケーションがとれるようである。むかしテレビでやっていたスヌーピーのアニメでは、子供の声は普通に声優をあてているのだが、大人の声はトランペットみたいな音で代用していた。なんだかそれを思わせる。

あとこれはまったくのドタカンでいうのだけれど、この作品はトルーマン・カポーティの『冷血』の影響を受けているのではなかろうか。表層的な部分だけでも次のような共通点がある。

1. ドキュメンタリー・タッチであること
2. 一家四人殺しであること(正確にはそうではないけれど)
3. ほとんど理解不可能な犯罪であること
4. 逃走劇が作品のかなりの部分を占めること

ただ『理由』の犯人は『冷血』のペリーにくらべればはるかに冷血である。それだけにラストで語られる幽霊のエピソードが読後心に重く沈む。

東京脱出!

コロナ禍のおかげで、今夕にも帝都に緊急事態宣言が出そうな気配である。そのあおりを喰ってか、東京脱出の動きがあるという。

拙豚の故郷は例の一時間以上ゲームができない恐怖の県であって、帰ろうと思えば帰れないこともない。でも自宅にとどまるつもりである。なぜかというと、まず何より乗り物が怖い。車で帰るのなら別だが、夜行バスにせよ新幹線にせよ、密閉された場所で何時間も過ごすのは自殺行為に近いものがあると思うがどんなものだろう。谷崎潤一郎の何かの小説(「黒白」だったか?)に、汽車に乗るのを病的に怖がる男が出てきたが、今となってはあの男の気持ちがよくわかる。

というわけで今後しばらくは自宅に籠って頼まれた仕事を粛々と続けるつもりである。何しろこの「プロジェクト芋粥」(仮称)はやってもやっても終わらないのだ。この仕事が終わったあかつきには、さしもの新型コロナも終息しているだろう。そうあることを願う。それが無理ならせめてジャリ全集が出るころには……

アンソロジーの終わりかた

 
澁澤龍彦の編纂による『怪奇小説傑作集4』はアンソロジー史に残る名アンソロジーだと思う。

と言うと一知半解の徒は「あれはカステックスのアンソロジーが種本になっているから」とか何とかいうだろうが、それは見当違いもはなはだしい。カステックスのアンソロジーの最後はアポリネールの『虐殺された詩人』の最後の短篇「蘇った詩人」である。いわば他人のフンドシを借りるような終わり方である。ところが『怪奇小説傑作集4』のトリはレオノーラ・カリントン「最初の舞踏会」である。これがすばらしい。

と言うと一知半解の徒は「あれはブルトンの黒いユーモア選集に入っているから」とか何とかいうだろうが、それは見当違いもはなはだしい。あれはまさに、澁澤アンソロジーの最後を飾るために書かれたような短篇である。あえていうなら、あそこに出てくる女の子は、はるかに後の『裸婦の中の裸婦』で、澁澤の話し相手となる女の子を予告しているような感じさえする。

この短篇の原題は「デビュタント」といって、「社交界にデビューする娘」という意味である。最後に置かれた短篇が最初(デビュー)というのが洒落ているではないか。しかもこのデビューは社交界デビューで、つまりそれは少女時代の終わりを意味している。ところが主人公の少女はそれに叛旗をひるがえす。澁澤は映画『ブリキの太鼓』を見て泣いたとどこかに書いていたが、それと一脈通じるものがある。

少女が最後に出てくるアンソロジーといえば、都筑道夫編のポケミス版『幻想と怪奇』のラストである「ミリアム」も忘れがたい。しかしあれはどちらかというと少女よりも老婦人の心理のほうに重心が置かれていた気がする。いやそんなこともなかったかな? 

この短篇は「『ヘロー』ミリアムが言つた。」という文章で終わるが、このセリフは二人のミリアムのうちどちらが言ったのか。その解釈によって、この短篇の受け取り方は相当に異なってくるだろう。もちろん作者はそこを故意にあいまいにしているのだと思う。

ボルヘスとフォークランド紛争

年配の方はご存じだろうが、今から四十年ほど前、フォークランド紛争というものがあった。アルゼンチンの沖合にフォークランド諸島というちっぽけな島々があり、ここは昔から領有権がはっきりしていなかったようだ。というか、イギリスとアルゼンチン双方ともこれは自分の島だと主張していたらしい。

一九八〇年代のはじめに、ふとしたことから両国のあいだで戦争が起きた。そのきっかけはよく覚えていないけれど、いずれ肩が触れたとか足を踏んだとかのくだらない原因だったのだと思う。ともかく時の首相サッチャーの号令一下、艦隊がアルゼンチンに差し向けられた。

アルゼンチンの世論は「鬼畜イギリス撃ちてしやまん!」と大いに沸いたそうだ。戦争の数年後に行われた対話で、ボルヘスは「当時この戦争に反対を表明した作家は自分とシルビナ・ブルリッチだけだった」と述懐している。ボルヘスの声明は「フアン・ロペスとジョン・ウォード」という詩の形でなされ、アルゼンチンの代表的な新聞「クラリン」の一面を飾った。のちに生前最後の詩集『共謀者たち』(1985)に収められた。



フアン・ロペスとジョン・ウォード

二人は奇妙な時代に生きる定めだった。

惑星は別々の国に分かたれ、各々が忠誠を、愛しい記憶を、赫々たる古の勲を、権利を、不正を、固有の神話を、青銅の名士を、記念日を、煽動家を、象徴を授かっていた。その分割は、地図を作るにあたり、いくつもの戦争を後押しした。

ロペスは流れない河の畔 (ほとり) で、ウォードはブラウン神父が歩いた町の郊外で生まれた。ドン・キホーテを読もうとウォードはスペイン語を学んだ。

他方はコンラッドへの愛を表明し、それが啓示されたのはビアモンテ街の教室でだった。

友となるべき二人だったが、顔を合わせたのは一度きり、あまりに名高い島の上で、双方がカイン、双方がアベルとして。

二人は共に葬られた。雪と腐敗が彼らを見舞った。

これはわたしたちに理解できない時代に起きたことだ。


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これはプレイアッド版の仏訳。注釈と解題が親切で助かる。


「ジョン・ウォード」は初出では「フアン・ウォード」でフアン・ロペスと同じ名にされている。また「流れない河」とはアルゼンチン国境に流れるラプラタ河のことで、あまりにゆったりとしているので流れていないように見えるらしい。

紙ペーパー

拙豚が小学生のころ、図工の時間に「紙ペーパー」なるものを使っていた。と言うと、えっなにそれ? 紙ペーパーって要するにただの紙じゃないの? と皆さん疑問に思われるだろうが、当時はサンドペーパーのことをそう呼んでいた。「砂ペーパー」とも呼ばれていたが、「紙ペーパー」のほうが一般的だった。

でもその後は、今にいたるまでそんな言葉は聞いたことがなかったから、あれは田舎の方言か何かだったのだろうと思いこんでいた。ところがどっこい、紙ペーパーというのはまだあった。それどころではない。検索したら商品名にさえなっている。すると全国的に使われている用語だったのか。

紙ペーパー健在なり! それはとても嬉しいことだが、変には思われていないのだろうか。「目は人間のまなこなり」という格言(?)があるが、なんだかそれに近い感じがする。昨今は「オーバーシュート」なる言葉の是非が話題になっているようだが(拙豚は「予測を大幅に超える」というニュアンスが感じられるのでぎりぎりセーフではと思うが)、どちらかといえば紙ペーパーのほうが気になるのだった。

ポーと乱歩



 ポーといえば乱歩である。少なくとも日本では。その乱歩が、ポーのストーリーを自己流に料理してみたいと思っていたということが、たしか『探偵小説四十年』に書いてあった。それによると、その一つは「ホップ・フロッグ」で、これは「踊る一寸法師」となって結実した。乱歩自身は失敗作として謙遜しているけれど、たとえば飲めない酒をむりやり飲まされるシーンなど、換骨奪胎として第一級のできばえだと思う。若い頃は乱歩自身も酒が飲めなかったらしいので、その鬱屈が投影されているのだろうか。

 もう一つは「スフィンクス」で、錯覚の恐怖というべきものをテーマとしたこの短篇はいかにも乱歩好みのストーリーだと思う。「恐ろしき錯誤」という短篇が乱歩にあるが、この「スフィンクス」も言ってみれば恐ろしき錯誤をあつかったものだから。ただし残念ながら「スフィンクス」の乱歩化はなされなかったようである。

 しかしそれらとは別に、『探偵小説四十年』では触れられていないが、実現したいわば第三のオマージュ作品があるのではないか。他でもない、「防空壕」である。読めばわかるように、これはポーのある短篇と大まかなストーリーが同じで、どちらも「〇〇と思ったら〇〇だった!」という恐ろしき錯誤を扱っている。未読の人にネタを割ってはいけないので詳しくは述べないが、これは戦後の乱歩の短篇では出色のできばえであるといっていい、と少なくとも個人的には思う。創元推理文庫版日本探偵小説全集に収録されたのもむべなるかな。