文学フリマ御礼

昨日は台風の近づく中、文学フリマ大阪に参加してきました。スペースに来てくださった皆さま、ありがとうございました。文学フリマは開催場所によってそれぞれ雰囲気が違うものですが、大阪の場合は溌溂というか、シャキシャキというか、浪速の底力を見せているというか、なかなか好ましい感じでした。梅田の迷宮が精神を病むほど入り組んでいるので大阪は今まで敬遠してましたが、来てよかったと思いました。

頭に猫耳をつけ、黒衣に身をかためた長身痩躯の女性が会場を徘徊していたので、「さすがに文学フリマには不思議な人が来るもんだな~」と感心して見ていたら、なんと弊スペースまであいさつに来てくださいました! その正体はとある版元の編集の方だったのです。驚くやら恐縮するやら。

かわいい女の子も来てくれました。未谷おとさんのお嬢さん。もう中学生になったというから月日のたつのは早いものです。

当日の出品物のなかでは翻訳文学紀行が出色のものでした。商業出版が難しそうな翻訳を私家版で刊行するというコンセプトはわが「エディション・プヒプヒ」と同じですが、レベルは「翻訳文学紀行」のほうがはるかに高いと思います。青を基調にしたカバーのアートワークも溜息が出るほど美しいです。書肆盛林堂や古書いろどりでも扱えばいいのにね~。

四時に撤収して新大阪駅に向かったら、ちょうど東京行きの最終が出るところでした。次は10月20日の文学フリマ福岡にお邪魔します。今回は出せなかった新刊も極力出そうと思っています。

ジーン・ウルフも負ける

キャベルのマニュエル伝を分担して訳している安野玲さんから、訳語のすりあわせについてメールをいただいた。そのメールによると、キャベル訳出はジーン・ウルフよりも大変なのだそうだ。

ジーン・ウルフより大変とはすごいですね、と言うとなんか人ごとみたいだが、その大変さはわたしも身に染みて感じている。訳稿はとりあえず先月末に送ったのだが、一番大変なところはまだ訳されていない。「もう少し考えさせてください」とお願いして宿題になっている。

どれくらい大変かというと、『イヴ』にはドイツ語訳とイタリア語訳があるのだが、文法さえ知らないイタリア語の訳本を辞書と首っ引きで読んだほうが、原文の英語よりはまだ訳しやすい(ところもある)というくらい大変なのである。ドイツ語訳のほうは西田政治みたいな人が訳しているらしく、適当すぎて話にならない。難しいところは平気で飛ばすし……

思うに英語は他の印欧語にくらべると文法がルースなだけに、いくらでも好きなだけ変な文体を作りだせるのではないか(個人の感想です)。それがある種の人にとってはこよなき魅力であると同時に、ある種の人にとっては諸悪の根源でもあるのだろう。

ある篤実な翻訳家がある難解な作品に手こずったあげく、「氏の文章には手応えどころか、遂には嘔吐と憎悪と、時として敵意をすら覚えることがあった」とあとがきに記し、その後まもなく亡くなったという。言うてはなんだがそんな話は英語以外では聞いたこともない。

という感じで二人してウンウンうなっているところに、特に名を秘す骨の人が、「キャベル販促のトークイベントを開きませんか」とかいってきた。悪いけれど今はとてもそれどころではない。訳了できるかできないかの瀬戸際なのだ。

『幽霊島』の刊行に寄せて

 
あなたが一流のレストランに行ったとしよう。コースを一通り堪能し、コーヒーを啜りながら、「ああ美味かった」と味を反芻しているとしよう。そんなときシェフが不意に現れて、「でも料理は自分の家で作るのが一番ですよ」と言い出したら、あなたはどう思うだろう。「何だこいつは?」と思うだろうか。

平井呈一の『怪奇小説傑作集1』での解説がまさにそれで、その文章はこう結ばれている。「冬の晩、字引をひきひき恐怖小説を読む醍醐味はなんともいえないもので、いちど味わったら長く忘れることのできないものです。試みにはじめてみられるといいと思います」

翻訳者としての役割放棄とも見られかねないこの言葉は、しかし、何百人かの人たちには啓示(あるいは呪言)として作用したとおぼしい。のちにカナダの幽霊小説専門書肆アッシュ-トゥリー・プレスが出した限定本は、総部数の半分を日本人が買っていると噂されたが、そんな謎めいた現象にも、平井翁のこの言葉が少なからず影響しているような気がする。

つまり翁の翻訳は翻訳というより言葉あるいは文化の溶け合わせともいうべきものだ。ちょうどラフカディオ・ハーンが日本の古譚のなかにghostly Japanを見出し、シンプルながら喚起力の強い英語で表現したと同じように、平井呈一もその類まれなる妖怪アンテナでとらえたghostly Englandを、日本語のなかに放流というか解き放ったわけである。まことにこの二人は、日→英と英→日と方向こそ異なれ、鏡面で隔てられた双子の兄弟みたいな趣がある。二人とも母語の文学への広い教養がバックグラウンドにあるという点をとっても。

表題作となっている「幽霊島」は「なんでこれほどの作品が埋もれているんだろう」とかねがね疑問に思っていたほどの名作。この機会に多くの人の目に触れるのは喜ばしい。

巨大豆本あらわる

巨大豆本 あらわるあらわる~ あらわれないのが小さい豆本です~

ということで、大方の危惧のとおり、酷暑のせいもあって、『怪奇骨董翻訳箱』特典豆本はあられもなく巨大化してしまいました。本来ならここに画像を載せるべきかもしれませんが、あまりに大きいのでちと躊躇されます。ただ「文庫本より大きくはしない」という最後の一線だけは越えないようにしたつもりです。

本日国書刊行会に向けて発送しましたので、おそらく来週以降皆さんのお手元に届くのではないのでしょうか。どうぞお楽しみに。

豆本応募御礼

豆本応募は結局締め切りまでに90近く来たそうです。応募して下さった皆さんありがとうございます。

お盆休みの影響もあり(けしてコミケの影響ではないですよ?)皆さんへの発送は20日頃になる予定です。申し訳ありませんがいましばらくお待ちください。

【8/2追記】その後の調査により応募は90を突破していることが判明しました。豆本は予定通り100部作ります。

大いなる野望

ミステリーズ! Vol.96

ミステリーズ! Vol.96

じゃーん! 来月出る「ミステリーズ!」8月号にレルネット=ホレーニアの短篇が載ります。版元サイトの内容紹介欄でも堂々とディスクローズされているので情報解禁とみなし、ここでも宣伝させていただきます。今回の「ミステリーズ!」は西崎憲さんの新作短篇とか、東雅夫さんと恩田陸さんとの対談とか、「奇妙な世界の片隅で」の中の人による怪奇幻想小説翻訳概況とか、その筋の者は必読の内容が満載です。おうおうそれから新保教授も何か対談するらしいです。

実は拙豚はT京S元社からレルネット=ホレーニアの二冊目を出すという大いなる野望を持っていて、そのための布石を打ちつつ虎視眈々と機会をうかがっているのです。とはいうものの、残念ながら前作『両シチリア連隊』の売れ行きが担当編集者の方の大奮闘にもかかわらず今一つだったようで、野望実現まではまだまだ幾多の困難があるやに見受けられます。本当はペルッツと同じくらい面白いのですが。

とこういうことを書くと「ははあキャベルの翻訳を一か月遅らせたのはレルネット=ホレーニアを訳すためだったのか!」と勘繰る人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。これは別腹です。英語でいうとアナザーストマックです。たびたびこういうことを書くと、お前は牛か! いったいどれだけ胃袋があるんだ! とも言われそうですが、まあ誰しも胃袋の三つか四つくらいは持っているものです。

豆本締め切り迫る!

『怪奇骨董翻訳箱』刊行記念 (巨大)豆本プレゼントキャンペーンの締め切りが今月末に迫りました。今時点の状況ですと余裕で全プレなのでふるってご応募ください。(ちなみに豆本発送等の事務はすべて国書で行いますので、わたしに応募者の個人情報が洩れることはいっさいありません。)

応募方法は簡単です。以下の要領でツイートしてください。

1.ハッシュタグ「#怪奇骨董翻訳箱」をつける。
2.購入した『怪奇骨董翻訳箱』の写真を添える。
3.何かコメントを書く(コメントは「豆本キボンヌ(死語)」でも何でもいいです。必ずしも中身を読んでいる必要はありません)。
4.国書刊行会のTwitter(@KokushoKankokai)をフォローする。

特に4を忘れるとDMが届かないので注意しましょう。

それでは! たくさんのご応募をお待ちしています。

ギョ~ルゲ~

 
不思議な魅力のある本が出た。

どこか外国の、大きすぎも小さすぎもせず治安もまずまずの町に着いて、ひとまずホテルにチェックイン、さてこれから行き当たりばったりにあちこち回ろうか、といったようなわくわくした感じがこの本にはある。

しかし、観光にしてもこの本にしてもそうなのだが、あちこちを見物していくうちに、だんだんと景色より歴史に圧倒されるようになる。短めの短篇として語られる『方形の円』の諸都市は、どれもその分量に似合わない遥かな時間を内包している。

カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』はおそらくは全部同じ都市(つまりヴェネツィア)のさまざまな相を語った物語だと思うが、この『方形の円』はもちろんそんなことはない。個々の都市は時間的にも空間的にも孤立して遠く隔てられている。

そこからただちに光瀬龍の描く諸都市が連想される。東キャナル市とか、ヴィーナス・クリークとか、木星のプランクトン・シティとか、あるいは、パッチワークで作られようとしていたアイララのレプリカとか。どの都市にしても、この『方形の円』のなかで語られていても違和感がないではないか。

「ギョルゲ」という作者の名もいい。佐藤有文の世界妖怪図鑑にでも出てきそうな響きだ(実際はたぶん「ジョージ」のルーマニア語読みにすぎないのだろうけど)

失われた『魔都』断片

 
鏡明の『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた』を読んでいたら、十蘭の『魔都』の話題が出てきた。この本の中には「マンハント」の編集長だった中田雅久へのインタビューが入っている。中田氏は終刊直前の「新青年」の編集に携わっていたことがあり、その関係で『魔都』のことも出てくる。

なんでも、小説中に入る挿絵が凸凹したりして不定形になっている場合、「新青年」の時代には律儀にその凸凹に沿って活字を組んでいたそうだ。すると字数計算が難しくなるから、予定したページ内に小説の原稿が収まらない場合が出てくる。そんなときどうするかというと――中田氏の話によると恐ろしいことに――小説を勝手に縮める場合があるのだそうだ。

『魔都』の、国書版全集第1巻でいえば、p.314下段11行目から12行目にかけて、場面が不自然に飛ぶ。いままで屋内だったのが、急に崖の下の場面になる。中田氏の推測によれば、「新青年」に掲載されたときの当該ページには面倒臭い形をした挿絵があるので、編集子が字数計算を誤って一パラグラフ割愛したのではないかということだ。

言われてみれば確かにそんな感じがする。原稿でも残ってない限りもはや確かめようもないことであるが……