『容疑者Xの献身』再訪


 

昨日の続き)日が暮れる頃にはやや回復したので、『CRITICA』のバックナンバーを読んで過ごした。これは『「新青年」趣味』『Re-Clam』『CRITICA』というミステリ評論同人誌御三家のなかでは、もっとも「熱い」雑誌だと思う。評される対象と評する人の距離がもっとも近いといってもいい。初期の号ではいわゆる『容疑者X』論争がたびたび取りあげられていて、「ああそんなこともあったな」と懐かしく読んだ。

実をいうと「『容疑者Xの献身』は本格である」という物言いには当時から違和感があった。たしかに『容疑者X』ではフェアに手がかりが提示されていて、最後に意外な真相が明かされる。だから、たとえば、「ロスマクの『さむけ』は本格だ」と言うときの意味での「本格」なら、たしかに本格だろう。そこまで反対するつもりはない。しかし『さむけ』がもし昔の創元推理文庫に入ったとすると、背表紙はハテナおじさんマークにするだろうか。そこはやはりピストルではなかろうか。

つまり、作者が書きたかったのは、ロスマクと同様に、パズラーではなかっただろうと思う。書きたかったのはむしろ、異常な人物による歪んだ愛のかたち、愛する人を自分の支配下に置きたいという欲望、ストーカーの極限形態といったものではなかったか。冒頭の殺人は正当防衛で無罪になる可能性が高いから、石神が彼女を普通に愛していたのなら、取るべき最適な行動は、説得して自首させることであったはずだ。そしてその優れた頭脳は、弁護士と協力して彼女を無罪にするために使うべきであった。

それはともかく、CRITICA vol.3 (2008) には市川尚吾氏の長文論考「本格ミステリの軒下で」が載っている。これも実に刺激的で熱い文章で、副反応で鈍った頭を励起させる作用があった。

ここでは『容疑者Xの献身』について、「「叙述トリック一発」のどんでん返しが仕掛けられており、読者に不意打ちを食らわせるタイプの作品である」と書かれてある。しかし『容疑者X』は(仮に本格であることを認めるとしても)叙述トリック作品だろうか。

叙述トリックとは作者が読者にかけるトリックだが、この作品では読者がだまされているのと同じところで作中の刑事もだまされている。だから叙述トリックとはいえないと思う。湯川ものの次作『聖女の救済』なら立派な叙述トリックで、おまけにパズル性も『容疑者X』より格段に高いと思うけれど。

ただし、「倒叙ものと見せかけて実はハウダニット」あるいは「アリバイ崩しものと見せかけて実は違う」という意味でなら『容疑者X』も叙述トリック(=作者が読者にかけるトリック)といえるだろう。これは「男と見せかけて実は女」とか「今年と見せかけて実は去年」などよりも一レベル上のトリックだ。文章表現によって読者をだますのではなく、読者のジャンル意識を逆手にとってだます、いわばメタ叙述トリックだから。

そういえば天下の怪作『赤い右手』も「サイコサスペンスと見せかけて実はフーダニット」だった。これもジャンルを錯誤させるメタ叙述トリックといえるかもしれない。もっとも『赤い右手』の場合は、作者のたくらみというより、「何も考えてないのに結果的にそうなった」という天然感がただよってはいるけれど。

東野圭吾の『黒笑小説』だったか『歪笑小説』だったかに、自分ではハードボイルドを書いているつもりなのに編集者からはユーモアミステリーとしか思われていない作家が出てくる。『赤い右手』を書いたJ. T. ロジャーズもそんな作家だったのかもしれない。本人としては心底真面目にパズラーを書こうとしていたのかもしれない。