『九人の偽聖者の密室』


 

将来自分も「奇想天外の本棚」を企画するようになったときのために(妄想)、何かの参考になるかと読んでみた。作者のバウチャーは1911生まれで、この『偽聖者』は1940年の出版だから、バウチャーが二十歳代で書いた小説になる。なるほど作家やら警部補やら尼僧やらが、まるで学生みたいにディスカッションする様子は「若いね~。まるで黎明期の新本格だね~」という感じでほほえましい。

これを読み終わってつくづく感じたのは、「それにしても『本陣殺人事件』は名作だった!」ということだ。

人を殺そうとして複雑なカラクリを弄するときは、もしそれが計画殺人なら、事前にそのカラクリがうまくいくか試したくなるのが人情だろう。出たとこ任せで決行して失敗したら目も当てられない。

かといって、予行演習しているところを人に見られたら、別の意味で目も当てられない。

『本陣』の優れた点は、その予行演習がプロットに緊密に組み込まれていることだ。もし犯人が予行演習をしていなかったらプロットそのものが成り立たない、というところまで緊密に組み込まれている。今さら言うのもなんだが、やはり横溝は偉大だ。

カラクリが一読しただけではよく吞み込めない、というのを『本陣』の欠陥のようにいう人もいる。だがそれは誤りだと思う。なぜかというと、第一に、そんな変なカラクリを考案することそれ自体が、犯人の偏執的な性格を表わしていて、少々異常な動機に間接的に説得力をもたせているから。

第二に、それだけ複雑なカラクリだからこそ、予行演習の必要があって、先に言ったように、それがプロットを推進させる力になっている。つまり、このプロットを(「トリックを」ではないことに注意!)成り立たせるためには、ぜひともカラクリは複雑でなければならない。