『烙印』


 
今月の宇陀児第二弾も読み応えがあった。強いて集中のベスト3を挙げるとすれば以下のようになろうか。

「決闘街」——良心の呵責からおかしくなりかけている二人が決闘を望みながら果たせず、やり場に困った不完全燃焼の感情が、ふとした偶然をきっかけにとんでもない捌け口を見出し、二人はとうとう精神の均衡を失ってしまう。最後の殺人場面はスラップスティックと言いたくなるほどだが、それでいて妙なカタルシスがある。「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある」と乱歩は言ったけれど、これもまた見事な逸脱といえよう。異常心理から奇行への跳躍はポーの「天邪鬼」「告げ口心像」「黒猫」あたりを思わせる。もしかしたら宇陀児はポーのこうした短篇に影響を受けたのかもしれない。ラストの三行である「物」が出現して怪談になる呼吸も絶妙。もっともこういうジャンル越境的なところ (宇陀児の言葉で言えば馬の頭に角を生やす実験) がある種の原理主義者に嫌われるのだろうけれど……。

「不思議な母」——タイトル通り変なお母さんの話。作者の筆はこの特異なキャラクターを生き生きと浮かび上がらせているが、一歩間違えればギャグになりかねないほど、やはり普通のリアリズムからは逸脱しているのではなかろうか。このお母さんが探偵役で、まあ名探偵と言ってもいいのだけど、普通のミステリの感覚からすれば相当に変かもしれない。なんとも異様なハッピーエンドも一読忘れがたい。オフビートとはこういうものを言うのだろうか。

「危険なる姉妹」——一種の〇人〇役トリックが用いられている。しかも解説でも指摘されているように、読者が途中でそれに薄々気づくように語られている。つまり「真相開示の驚き」を狙ったものではなく「おぼろな予感から来る恐怖」を狙った作品であろう。このトリックを用いた語りによって「余はいかにして悪女となりしか」が惻々と読者に迫る。「ああそうか、今までのくだくだしい話は全部『余はいかにして悪女となりしか』を語ったものだったのか」と読者が感づいたとたんにゾワッと寒気が走るのだ。もちろん美女が一瞬にして老婆になるという、日本古来の伝統芸ともいえる恐怖もある。そしてラストは「そんなのうまくいくわけないだろ!」と誰もが思う別の駄トリックを犯人が計画するところで終わっている。たぶん一発でばれて監獄行きになるだろうが、そこらへんは一行も書かないところが憎い。

少なくともこれらの作品については、宇陀児は乱歩の名作短篇の塁を摩しているか、あるいは上回っているように思える。巻末のエッセイで宇陀児はいわゆる「探偵小説の鬼」を忌み嫌っているが、それはそうだろうと思う。宇陀児作品のトリックはどれもトリックそのものとしての独創性はあまりない。独創性はむしろ作中におけるトリックの役割、あるいはトリックとそれを使う人間の結びつきにある。つまり「危険なる姉妹」でも「蛍」でも、「こういうトリックを弄する人間」という形で、人間を描いているといっていいだろう(その意味では世評高い「凧」や「爪」は物足りなく感じられるが……)。同様に「不思議な母」では「こういう探偵をする人間」という形で人間を描いている。こんな風に探偵小説のガジェットあるいは約束事を意外な用途に使うところに宇陀児の独創性があると思うのだがどうだろう。