『悪魔を見た処女 吉良運平翻訳セレクション』

 

 

学魔の新刊『鎮魂譜 アリス狩りVII』を買おうと思って雨の中を東京堂書店まで行った。お目当ての本は新刊平台ですぐ見つかったが、そのすぐ近くに目を疑うような本が並べてあった。すなわち本書である。

吉良運平の名は乱歩『幻影城』の愛読者にはおなじみだと思う。乱歩をして「チャンスラーという作家は私は知らない。チャンドラーの間違いではない」と言わしめた全欧探偵小説叢書の企画者である。この叢書のもとになったドイツのミステリ叢書「アルベルト・ミュラー選書」は加瀬義雄氏の『失われたミステリ史』でも言及されていて、その英米作家の選択を加瀬氏は「超ユニーク」と評されていた。

しかしまさか吉良運平が新刊台に並ぶとは。論創海外ミステリの底知れぬ天然というか酔狂さというか無謀さというか、ともかく得体のしれない姿勢に戦慄した一瞬であった。3月30日の日記で触れた都筑道夫創訳集成にしてもそうだったが、最近はまったく何が出るかわからない。古本屋を漁るより新刊棚を見る方がよほど楽しい。

それはともかく吉良運平は3800円、アリス狩りは3600円、サテどうしよう。と少し迷ったあげく、俺が買わなくて一体誰が買うというのだ、という気持ちに突き動かされて、吉良運平を買った。アリス狩りのほうはきっとみんなが買うだろう。

本書にはエツィオ・デリコの『悪魔を見た処女』(1940, イタリア)とカルロ・アンダーセンの『遺書の誓い』(1938, デンマーク)の二長篇が収録されている。まず『悪魔を見た処女』から読んでみた。

なかなかよかった。翻訳は古めかしいとはいえ快調で、「論創海外ミステリ」の中でも上位にランクされると思う。乱歩が「訳文もよろしく」と書いてあるとおりである。特に会話が自然でよい。

推理小説としての骨格も、英米黄金期のゆるい本格(たとえばクリストファー・ブッシュとか)にひけをとるものではない。少なくとも作者は本格推理小説の何たるかを理解している印象を受けた。これはこの時期の英米以外のミステリとしては珍しい。

たとえばなぜ処女(おとめ) が「悪魔を見た」のか、その意味が最後にわかるところ——犯行完遂のためにはどうしても「悪魔」が必要だったのだ。あるいはそこから逃げたはずはないのに窓から逃走用の縄が垂れ下がっている謎とか。これらはおお、と嬉しくなるような真相なのである。

ただ何となくアブリッジくさい匂いはする。病院を脱走した人のエピソードなどは中途半端だし。本書はドイツ語を介した重訳なので、いずれかの段階でアブリッジが行われたのかもしれない。

第五章に余計な一文があるがために(87ページ)、この時期のミステリを読みなれた人にはトリックはバレバレである。ただトリックはわかっても犯人がわからないのが不思議なところで、それもそのはず、なんと、巻頭の主要登場人物一覧に犯人の名が挙がっていないのだ。

でもこれは、作者を弁護するわけではないが、ファシズム支配下のイタリアでは、犯罪者はアウトサイダーでなくてはならぬという不文律があったからだろうと思う。また、横井司氏が解説で指摘しているとおり、叙述のフェアネスについて文句を言う人もいるだろう。しかしこれも昔の本格なら許容範囲ではないか。いかにもイタリア人ふうの、ものにこだわらないおおらかさと捉えたい。

ちなみに原題は "La donna che ha visto" で、これは英語にすれば "The lady who has seen" となる。つまり直訳すれば(家政婦でなく)『レディは見た』であって、レディが何を見たのか、そしてレディとは誰のことであるかは特定されていない。真相から考えればこの原題のほうが含蓄があっていいと思う。