いかに終わるか 山野浩一発掘小説集


  
山野浩一の作品を読むと小説とは何なのかがわからなくなる。小説に対して漠然と持っていたモノサシが通用しなくなる。これは天城一の推理小説を読むと推理小説とは何かがわからなくなるのと好一対かもしれない。堅苦しい言葉で言うならそれほど強烈な異化作用があるということだ。

その一方、本がそこにあれば手に取らざるをえない魅力をそなえてもいる。創元推理文庫で傑作集が出たのがもうだいぶ昔の話になってしまったので、今回の発掘小説集の刊行はとてもうれしい。巻頭の「死滅世代」からしてもう山野節全開である。「非常に陰鬱なトーンが貫かれているがため、単行本に収録しようとすると編集者に必ずはじかれた」という本人の言がおかしい。

山野浩一が描く無機質で殺伐とした世界はJ.G.バラードや安部公房と共通するものがある。これらを生んだ六十年代から七十年代は唯一無二の時代であったと思う。そのひとつの背景は当時盛んだった宇宙開発である。おかげで人は虚空というものに肌で触れ合った。大げさにいえば月への道のりが南極とそれほど変わらなくなった。だがそれは同時に、人がその行動圏内に大きな虚空を抱え込んだということ、人間が宇宙の孤児であることを実感したということでもある。それにしても、まさか二〇二二年になっても人が火星に行っていないなんて、いやそもそも行く気さえないなんて、当時の人々には信じられないことだろう。

二つ目はいうまでもなく米ソの対立とあちこちで勃発したゲリラ戦である。「そしてあちこち炎上するのよ/だって世界は寒いんだもの」というブリジット・フォンテーヌの歌そのままに。

三つ目は、たとえば三島由紀夫が『地球幼年期の終わり』や『家畜人ヤプー』に見出したようなSFの可能性への注目である。「ここには何かがある」「これを使えば前代未聞、驚天動地の世界が開ける」という熱い期待感とエネルギーが当時は満ち溢れていたと思う。山野浩一がそのもっとも熱心な旗振り役であったことはいうまでもない。

それから時は流れ流れて、こうした六十年代は澁澤龍彦によって「ダサい時代でした」と総括されるようになり、人類はとうとう二十一世紀を迎えてしまった。本書巻末の「地獄八景」は長年の沈黙を破って二〇一三年に発表された、山野版「河童」 (芥川の) ともいうべき作品である。作中の「指揮は朝比奈隆さんだった」という一節はギャグなのか素なのか判断に苦しむ (ちなみに曲目はバッハのマタイ受難曲。あなたは朝比奈隆の振るマタイ受難曲って聞きたいと思いますか) 。それはそれとしてここに見られる不思議な明るさは、「いったん死んで地獄に行ってしまえばもう戻らなくてもいい」という安堵から来ているのではあるまいか。

「死滅世代」に登場する火星の研究室に住む教授は言う。「宇宙には人間の生命感を奪ってしまう冷い空間がある。そこでは誰もが生命存在の重荷に苦しむ必要もない。だからのびのびと仕事ができるのだ」。だがこの作品の主人公は火星から地球に戻らねばならなかった。同様に「嫌悪の公式」の主人公も工場から戻って「知人たちへの嫌悪をよみがえら」せる。芥川の「河童」にしても事情は同じである。だが地獄への道は片道切符だからその心配はない。

この絶筆は山野浩一にふさわしいのだろうかふさわしくないのだろうか。いずれにせよ山野にしか書けない絶筆であることは確かだ。その意味でも『いかに終わるか』という本書のタイトルは秀逸だと思う。それは世界の終わりでもあれば個人の終わりでもあるから。