また佐野洋を読んだ

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 また佐野洋を読みました。というと「お前は佐野洋しか読むものはないんか~」と呆れられそうですが、いい意味でも悪い意味でも後を引かない、読んだらすぐに忘れられる(というとけなしてるようですが褒めてるんですよ。すくなくとも読後嫌な後味が残る本に比べれば数等ましです)から何度でも読み返しがきく佐野洋は気分転換に最適です。今ちょうど八月末までに終えなければならない翻訳のメドがついてほっと一息入れているところで、こんなときに読むのは佐野洋にかぎります。

 今回読んだのは『砂の階段』。これは佐野洋作品の中では各段優れているほうではなく、佐野洋の全長篇をABCの三段階でランク付けすればBマイナスといったところでしょう。

 なぜこの評価なのか。この小説では犯人Aが自分の秘密を知っているBを殺すのですが、殺すほどのことはないではないかというのがまずマイナスポイントその1です。別にのっぴきならない証拠を握られているわけではないので、仮にその秘密が漏れても、知らぬ存ぜぬで押し通せばなんとかなりそうな気がするのです。

 マイナスポイントその2は、犯人Aが探偵役Cの注意をそらせるためにある行為をするところです。ところがなぜそんな行為をしたのかまったくわからない。読者は「まさか犯人がそんなことをするわけはないだろう」と思うので一種の目くらましになるのですが、作品世界の中だけで考えるとその行動の動機が理解できないのです。

 マイナスポイント3は、この作品が当時世間をにぎわせたある大きな事件を背景にしているところです。犯人の動機はその事件を抜きにしては考えられないのですが、今のわれわれからすると「そんなこともあったっけ?」程度にその事件の記憶は遠のいているので(そもそも若い人はまったく知らないでしょう)今になって読むと犯行動機に切実みがないのです。
 
 ところが今回再読するとけっこう読ませるのです。犯人が誰かを知ったうえで読むと、犯人がだんだん追い詰められていくのがリアルに感じられて、その点で手に汗を握ります。いうならばサスペンス小説としては上々といった感じです。

 そこで思い出すのは、いつぞやも取りあげた『シンポ教授の生活とミステリ』のなかのサスペンス論「ウールリッチとハイスミスの間には深くて暗い河がある」です。ここで教授はサスペンス小説を自助型と破滅型に分類し、ウールリッチの『幻の女』を、「外見上は自助型であっても実質は破滅型サスペンスであるという離れ業に挑み、ある程度それに成功している」と高く評価されています。

 この意味がわたしにはよくわからないのですが、あえて忖度するとたぶんこういうことではないかと思います。つまり、この小説の犯人に比較的早く見当がついた人にとっては、犯人の行動はまさに破滅型サスペンス以外の何物でもないので、たぶんそこを「離れ業」と評価したのではないでしょうか。ただ最後まで犯人の見当がつかない人には破滅型でもなんでもありません。現にわたしなどは、証人を次々消す手際のよさが素人離れしているので、犯人は警察官とばかり思っていました。

 ということで、犯人を知った上で読むと、この『砂の階段』は実に破滅型サスペンスの秀作であって(佐野洋にもう少し文学的表現力があれば傑作になったかもしれません)、サスペンス小説と思って読むと、犯人が追い詰められ切羽つまってとった行動のひとつひとつも、また最後にとった手段も、実に腑に落ちる気がするのです。