「篠田真由美お仕事日誌」の2月25日のところを興味深く読んだ。この日記では小栗が『グリーン家』のどういう部分に不満を持ち、それを『黒死館』でどう変えていったかを推測しているのだが、実作者でなければ気づかないであろう点がいろいろあって面白い。とくに「小栗は犯人は誰でもいいと思っていたのでは」というくだりは「そうそうそうなんだよね」と膝を打った。
わたしなんぞは人間が甘くできているから、グリーン家の犯人には「殺人を犯すほどそれほど追い詰められていたのか!可哀そうに」とつい同情してしまうのだが、黒死館の犯人にはあまりそういうことは思わない。むしろ「かっとなってやった。犯人は誰でもよかった。今は反省している」というような小栗の述懐が聞こえてくるような気がする。
もっとも松山俊太郎翁の教養文庫版『黒死館』の解説によれば、あの犯人の設定にはのっぴきならぬ必然性があるという。しかし(言うてはなんだが)あの解説には、「マリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』をあまりにも読み過ぎて陰謀論者になってしまいました」というところがなきにしもあらずだと思う。そもそも『黒死館』の犯人を生身の人間に設定すること自体に大いなる違和感を感じざるをえない。算哲が生前にディグスビイと協力して仕掛けた館の機械装置にやられたとか、実はみんなテレーズ人形のしわざでした! とかいう結末のほうがよっぽど納得がいくと思うがどんなもんだろう。
そうそう、そういえば、もうかなり前の話になるが、あるミステリマニアたちの会合に出たことがある。そこでたまたま澁澤龍彦の名が出たのだが、生粋のミステリマニアにとって澁澤がどういう存在かというと、これが何と「桃源社版『黒死館』の解説で犯人の名前をばらした悪い人」というふうな認識なんですね。これにはちょっと驚いた、というか「ところ変われば品変わる」という感じで面白かった。しかし澁澤にしても、あの小説の犯人は誰かなんてことは心底どうでもいいと思っていたに違いなくて、だからあえて犯人を明記したのだろうと思う。
ところでこの画像は『彷書月刊』1985年11月号に掲載された松山俊太郎インタビューだが、ここでも翁は「『黒死館』の元は虫太郎のエディプス・コンプレックス」うんぬんという持論を語っている。それはそうと、「……秋の夜長を過ごすってのは、人生の醍醐味のひとつじゃあないですか」というような語り口から、山口勝也さんという人は江戸前のいなせな方なんだろうなと当時勝手に想像していたのだが、後年お会いしてみたら、予想とは全然違ったたいそう気さくな方だった。