巽昌章氏の不在

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5/6の文学フリマで探偵小説研究会の『CRITICA vol.13』を買ったけれど、この号には巽昌章氏が寄稿していなかった。おお、なんということだ。がっかり。だがこの不在の悲しさを噛みしめているうちに、巽昌章氏の批評の特質といったもやもやしたものがなんとなく固まりかけたような気がしてきた。的外れかもしれないが忘れないうちにここにメモしておく。走り書きになるけれどもご勘弁を。

9年前のブログで紹介したSR Monthlyの戸川安宣氏インタビューで戸川氏が言うには、東野圭吾や宮部みゆきの愛読者のなかにも、自分がミステリを読んでいるという意識がない人がいて、「だから、なんで宮部さんや東野さんの小説ではこんなに人が死ぬんだろう、って不思議な顔を」するのだそうだ。
もちろん、こういう読者をも楽しませるということは、東野氏や宮部氏の作家としての手腕が優れていることを意味している。だがこういう読者はミステリを楽しんでいるわけではないと思う。

ミステリをミステリとして楽しむためには、作中のミステリとしての構造を(無意識にでも)感知することが必要だと思う。数学のたとえを出して恐縮だが、それは単なる集合に位相構造とか代数的構造を見るようなものだ。たとえば{・・・,-3,-2,-1,0,1,2,3,・・・}と単に数字が並んでいるだけなら、それは単なる集合(=数字が並んでいるだけ)であるが、ここに2+3=5というような演算規則を導入してやるとそれは群(代数的構造の一種)になる。3と8の間の距離は5というように距離を定義してやると、それは距離空間(位相空間の一種)になる。

同じようにミステリ小説にはミステリとしての構造が内包されているのだが、それは必ずしも「発端の謎・中段のサスペンス・論理的解決」というように明示的に定義できるものではない。たとえば、一応はミステリの体裁を整えていて、一応は目新しいトリックも案出されている小説でも「これはミステリではないよなあ」という作品は往々にしてある。逆に、明らかに作者はミステリとして書いていない小説でも、見方によってはミステリでしかありえない作品もある(たとえば北村薫氏のエッセイやアンソロジーにはそんな例がいくつも出てくる)。それより何より、「〇〇という作品は本格ミステリか否か」といった判断が人によってあきれるほどまちまちである(しかも当の本人が「これは本格ミステリである/でない」理由を明確に説明できなかったりする)ことがこれを雄弁に語っていよう。

つまりミステリのミステリ構造(=ミステリ性)は、語の本来の意味で「名状しがたいもの」であって、ちょうど流れ星みたいに、チラッと見えたときに、「アッあれあれ!」と指さすことしかできないものだ。つまりそれだけ人間の本性の内奥に(対象化してことさら言語化するのが難しいくらいに)根ざしているものだといってもいい。われわれがミステリに惹かれるのはまさにそのためであって、何もトリックやロジックを愛でるためではない。

巽昌章氏のミステリ評論は、そこをなんとか言語化しようとする試みだと思う。それはたとえば前の号に出ていた松本清張の『点と線』論にそれは顕著だ。まず大前提として松本清張はまぎれもないミステリ作家でありその作品はミステリであるというのがある。しかしそのミステリ性は作中では(たとえばアリバイトリックみたいに)わかりやすい形で露出しているとはかぎらない。平野謙の『点と線』論に氏が感じる不満はそこにあるのだと思う。