ストーリセンド版の前書きについて

今日は創元推理文庫神7の話はお休みにして、近く出るはずのキャベル作品集のことを少々。この作品集の翻訳底本は、中野善夫さんとの打ち合わせでストーリセンド版作品集にすることに決まった。この版の各巻にはキャベル自身による長い前書きが付されている。中野さんからの質問のメールで、この前書きも訳すかどうか聞かれたとき、実はわたしは消極的な返事をした。

だが信じてほしい。それはけして訳すのが面倒だからとかそういう理由ではない。

『ジャーゲン』は1919年に、"Figures of Earth"は1921年に、『イヴのことをすこし("Something about Eve"の仮題)』は1927年に刊行された。それに対してストーリセンド版作品集の刊行年は1927-30年だ。だから各巻の前書きも、「この本を書いたときはああだった。こうだった」みたいな回想調で書かれている。そしてそれらは本文と独立した読み物としても面白い。なにしろこれらの前書きを集成した"Preface to the Past"という、キャベル愛好家には楽しく読める本さえ出ているくらいだから。そしてその本に寄せ集めの感はなく、ちゃんと一冊の本として成立している。


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だがこの「一冊の本として成立している」というのがクセモノで、逆から言うと、たとえば『イヴのことをすこし』の前書きだけ読んでも、一冊の本の中途の一章だけを読んだみたいな尻切れトンボの感じがするのだ。

でもそれはキャベルの罪ではまったくない。これはストーリセンド版作品集の前書きなのだから、キャベルはもちろん、その全十何冊かの作品集が読者の前にどかーんと置かれてあるという前提で前書きを書いている。十何冊かのうちの三冊しか読まない読者、あるいは三冊しか出さない版元のことなど眼中にあるはずもない。

さらに同じ理由で、ひとつの巻の前書きで、他の巻に収録されている作品がしきりに言及される。なかにはねたばらしすれすれのものもある。これも三冊だけ刊行という場合にはネックになりそうな気がする。

そんなわけでわたし自身はちょっと消極的なのだが、なにがなんでも省くべきだとまでは思っていない。幸いにもわたしの『イヴ』より『ジャーゲン』のほうが先に出る。もしそこで中野さんが前書きも訳していたら、わたしも訳すのにやぶさかではない。すなわち究極のあなたまかせである。

実際この前書きはものすごく面白いといっていい。創作秘話とか自作の評価に対する評価とかあらぬ脱線とかが満載である。キャベルには"Let me Lie"とか"As I remember it"とかの自伝的エッセイがあるが、ストーリセンド版の前書きもそれと似た調子の、人柄のよく出た、ざっくばらんな座談調で書かれている。だがそれも、キャベルを何冊か読んだあとでないと魅力がとらえにくいような気がする。願わくば今回の三冊の刊行によって世にキャベル愛好家が激増しますように!