行ったきりにならぬために

 
おお、気がつけば『ダゴベルト』発売からもう一月近くも経っている! だが今宵は「ダゴベルトいろいろ」の続きはおいといて、光文社古典新訳文庫の新刊『人間和声』のことを語りたい。これはとんでもない作品だ!

「勇気と想像力ある秘書求む」という求人に応募した青年スピンロビン。なんでもテノールの声とヘブライ語の多少の知識が必須という。むかしシュリュズなんとかという博士の出した広告には、「腕力あり有能かつ想像力にとぼしい青年を求める」という、読みようによっては失礼な条件がついていたが、こちらは想像力がなければだめらしい。人里離れた峡谷に建つ館に連れていかれたスピンロビン君は、自分がとある実験の重要な一環であることを告げられる。

ストーリーはカバラ理論と音声学が綯い交ぜになった独特の理論をベースに進んでいく。根が素直な自分は、その理論も受け入れつつ「ふむふむなるほど、これは凄いな」と手に汗を握りながら読んでいた。このいわば唯音論ともいうべき考え方は、そんなに突飛であるとは思わない。露伴最晩年の不思議な著述「音幻論」や、あるいは西脇順三郎がやはり最晩年に熱心に探求していたという漢語とギリシア語の音韻類似分析(これについては四方田犬彦が『翻訳と雑神』のなかの一章で詳細に報告している)をも連想した。なぜかはよくわからないが。

第十章を過ぎるとしかし、ストーリーはバカホラーに傾斜していくような感じになる。なんだかわれらが倉阪鬼一郎の『文字禍の館』を思わせる展開になるのだ。この館には「あるもの」が囚われている。それが囚われている部屋は蠟管蓄音機に使用するような蠟が天井と壁を覆い、巨大な銅鑼がいくつも天井からぶらさがっている。ううううう、これはいかがなものか……「これは真面目に読んでいいものだろうか?」という疑いがきざすのは、ここらへんからだ。見神体験のクライマックス(338ページあたり)にすぐ続いて起こるアンチクライマックスとしかいえないストーリー展開(340ページ最終行)も「これはどうよ?」と人をして思わせしめるものがある。

ただ、最後まで読んでチラと思ったのは、「行ったきり」にならないためには、神秘探求に費やすのと同じだけのエネルギーでバカをやることが必要なのではないかということだ。作者ブラックウッドは終盤で、渾身の力でブレーキを踏んでいるのではないか?