パリのメコンデルタ

 エディション・イレーヌ提灯持ちシリーズ第二段として、当日記の二押し(という言葉があるのかどうかは知らないが)、松本完治訳『至高の愛―アンドレ・ブルトン美文集』について語ろうと思う。

 これを読む人は必ずや従来のアンドレ・ブルトン観がでんぐりかえるに違いない。ここでのブルトンはもはやシュルレアリスムの難解詩人ではない。片端から仲間を粛清する法王でもない。なにしろ開巻いきなり親馬鹿が全開するのだから。

 従来の訳、たとえば笹本孝訳などと大きく違う点は、情念とあいまったブルトンの思考のうねりを読者が苦労せず追っていけるというところだ。それも、ここはパリなのか京都なのかと疑われるくらいに翻訳臭を消した上質の文章で。

 変に肩肘はったところがなく、緊張感をみなぎらせながらも流麗な日本文に定着させたという点で、ことブルトン訳に関しては、松本氏は生田耕作を越えているのではなかろうか。 

 おお、パリの町に大股開きで息づく眩惑のデルタ地帯!