バラードならびに横光

 安藤礼二さんのJ. G. バラード論が、SFマガジンの最新号に載っている。一ページほど読んだあとに、こんなキュートなフレーズにぶつかった。

 「内宇宙」の探求とは、なによりも、自己の内部と自己の外部の区別がなくなってしまうような地平を、あらたな表現として切り拓いていく行為を意味していた。

 
 これこれ、これですよ! あらゆるバラード論はここから始まらねばならぬと思います。そしてバラードの素晴らしい点は、『コンクリートの島』から『楽園への疾走』にいたるまで、その「区別がなくなってしまう」場を、おそらくは大変な苦労をして発見 / 発明したあげくに、濃密な描写で、極めてリアリスティックに描きだすところにある。つまり、上の引用文の言葉で言えば「あらたな表現として切り拓いていく」わけだ。

 こうした内部と外部、時間と空間が融解する、あたかもビッグバン以前の宇宙のような開闢以前の原点として上海があるという本論の指摘は一聴に値すると思う。

 さらに興味をそそられたのは横光利一への言及だ。横光というのは、拙豚は初期短篇しか読んでないが、実にわけの分からない作家で、「機械」とか「頭ならびに腹」とか「ナポレオンと田虫」とか、「いったいこれは何ざます?」と言いたいような作品ばかりという印象があった。それがバラードという補助線を引いてみると、なにやら新たな展望がひらけたような気になるから不思議だ。

 横光の『上海』という長篇は当然にして読んではいないが、探して読んでみようと思う。なにやら傑作の香りがプンプンするではないか。

 残念なのは紙数があまりに乏しく、『沈んだ世界』と『結晶世界』しか俎上に乗せられていないことだ。ぜひ小野塚力さんの星新一論のように、主要作品総まくりをお願いしたいものだと思う。