お茶目な注について

 
パラドクシア・エピデミカ ― ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』の巻末に林立する「おかたい注」に混じって、「私もどこそこでこの目で人魚を見た」という注があるそうだ。訳者あとがきにはそう書いてあった。遅読ゆえまだその箇所には到達していないけれども。しかしこんなふうに、「博識と軽みが「合致」し「即合」」する例は、なにもコリー女史だけとは限らない。別の実例にたった今遭遇したところだ。

 ものはジョージ・セインツベリの『ヨーロッパにおける批評と文学趣味の歴史』(長いので以下略して『批評史』)。この浩瀚な三巻本のなかで、ティークの文芸批評が二ページばかり評されている。『青い彼方への旅』の解説を書き足すために、いまその部分をちょっとのぞいてみた。

 ところがセインツベリ先生、そこに注していわく、「ティーク批評集成はあまり売れていないのではないかと私は恐れる。いつまでたっても初版が品切れにならない」。

 なぜこんなことをわざわざ……。「お前に言われたくない」とティークの版元が気を悪くしないのだろうか。言ってはなんだが、『批評史』だってそんなに売れそうな本とも思えないよ。それとも「同病相哀れむ」といったような気持ちなのか。ともかく、セインツベリ先生のこのお茶目はコリーに負けていない気がする。

 ちなみに、このティーク批評集成は1848年から1852年にかけて四巻本で出た。そしてこの注のある『批評史』第三巻が出たのが1904年。まあ確かに半世紀以上かけて初版を売り切らない本は「売れていない」と言われても仕方がないのかもしれない。それはまた同時にティークがすでに忘れられた作家となっていたことも意味していよう。ティークが亡くなったのは1853年のことだ。

 それにしてもこのセインツベリの『批評史』、もう二十年くらい前に、今はなき早稲田進省堂のご主人に「三冊三千円にしとくよ」と言われていそいそと買い込んだのだけれども、(由良君美の『椿説泰西浪漫派文学談義』で書影を見てあこがれていたのだ)、まさか実際にページを繰る日がこようとは夢にも思わなかった!

 このように本は買っておきさえすればいつか必ず読む日はくる。汝積読を恥じるべからず。『パラドクシア・エピデミカ』だって、その分厚さにひるむ前に、まず財布をはたいて買う、という態度が大切だと思います。なぜか目の玉が飛び出るほどの値をつけている『ブック・カーニヴァル』などの旧高山宏本を古書店で見るにつけ、なおさらその感を深くするよ。