C感覚とY感覚(2)

 

  
 ……ということで、ベローナへの赤毛布の旅からようやく帰ってきたので、『パラドクシア・エピデミカ』に戻る。

 さるにてもベローナはいい町だった。酒はうまいし姐ちゃんもきれいだ!(よく見たら姐ちゃんじゃなくて男だったりするけど!) でも、「ホテル・カリフォルニア」みたいに「チェックアウトはできるけど立ち去ることはできません」なんて意地悪を言われることもなければ、ペルレみたいに新顔の参入で居心地が悪くなることもない。まだ行ってない人はぜひ行くといいと思う。

 イエイツとコリーを端的に分かつものは何か。まだ『パラドクシア・エピデミカ』の最初の5章しか読んでない分際で偉そうなことを言うのはいかがなものかと思うが、そこをあえて言えば「隠されたもの(Occult)」に対するセンスの有無ではなかろうか。

 「隠されたもの」へのセンスを持つ人は幸いである。なぜなら自分に理解できないことがあっても、それは「隠されている」と考えてとりあえず安心することができるからだ。

 しかし、ダンも、トラハーンも、ミルトンも、(そしておそらくはコリーも)そんなセンスは薬にしたくともなかった。だから「神」という超弩級の矛盾をそのままパラドックスとしてわが身に引き受けるしかなかったのだ。

 それにしても同時代人は過つものだということを、訳者あとがきに引用されたロバート・オーンステインという人の書評を読んでつくづく思う。オーンステインはこういう風にケチをつけるのだ。
 

『パラドクシア・エピデミカ』のページを先に繰るごとに、ルネサンスのパラドックスの伝統なるものが拡大し、ぼんやりしていくという印象は別に私だけのものではないのではないか。つまり[…]パラドックスこそがルネサンスの伝統なのだと、ともかく一度言い切ってしまいたいのである。それから教授が[…]ルネサンス作家たちのパラドキシカリティを論じるほどに自己矛盾の傷が深くなっていく。つまり教授は同じ解釈の融通無碍をもってドライデン、スウィフト、ポープ、そしてジョンソン博士のパラドキシカリティをも論証しきれてしまうはずだからである。ルネサンスの、と言えなくなってしまうのである。(本書p.589)

 「ルネサンスの、と言えなくなってしまうのである(キリッ)」って、お前どこを読んでんねん! と唖然たらざるを得ないという印象は別に拙豚だけのものではないのではないか。

 なにより、この書評では、「伝統」という言葉の選び方が全然間違っている。たぶん『パラドクシア・エピデミカ』のサブタイトルに惑わされたのであろうけれど、この本で論じられているのは、語の真の意味での「伝統」ではないと思う。なぜならここで扱われるパラドックスは、ルネサンスという特異な時期における一回性かつ突発的なものだから。

 ルネサンスというまたとない時代の転換期、つまり神への信仰はまだ十分堅固でありながら、同時に己の理性に際限ない自信を持ち、かつギリシア・ラテンの異教的パラドクシーに始めて触れてびっくり仰天瞠目したという、もろもろの条件が揃っていなければ、本書で扱われているパラドックスはまるきりありえなかったはずだ。それは本書を虚心に読めば明々白々なのでは?