伝染性パラドックス

四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)

四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)


むかしむかしアテネの町に、ゴルギアスという男がいた。まるでチェスタトンの小説から抜け出てきたような逆説の大家であった。

トロイのヘレンといえば、いまでこそ美女の代名詞になっている。しかしソクラテスらの時代には、凄惨きわまる戦禍を引き起こした張本人として、蛇蝎のごとく嫌われていたという。
しかしパラドックスが三度の飯より好きなゴルギアスは、ヘレンを逆説的に讃美してやまなかった。「トロイのヘレンは、諸悪の根源であればあるほど、それだけますます絶世の美女なのです(キリッ)」と、ポンド氏そこのけに、一世一代の熱弁を奮ったのだった。申すまでもなく、ファム・ファタルとかそういう世紀末的な不健全なもののもてはやされるよりも、ずっと昔の話である。

いま、ゲーテをはじめとする近現代のわれわれのなかで、トロイのヘレンが絶世の美女であることを疑うものはいない。すなわちパラドックスがオーソドックスと化したのである。考えてみれば恐ろしい話ではある。
もしゴルギアスの『ヘレネー頌』が後世に伝わっていなかったら、(これはありえない仮定ではない。ギリシア・ローマの古典の相当な部分は散逸してしまい、われわれを切歯扼腕させているではないか。ああ、たとえば、エピクロスの完璧な全集が今に残ってさえいれば!)、彼の一世一代のパラドックスを見破ることが誰にできよう。それにはブラウン神父か亜愛一郎級の名探偵を必要とするであろう。

しかし、一方からいえば、別に戦争の原因になろうがなるまいが、ヘレンが美しいことには変わりがない。それはホメロスだってちゃんと保証している。「ブラウン神父や亜愛一郎級の名探偵を必要とするであろう」といま言ったが、彼ら名探偵にしても、「美女は美女である」という至極あたりまえのトートロジーに達するしかなかろう。ミステリ好きの喜ぶ「意外な真相」などは薬にしたくともない。

かくのごとく、トートロジーと見まごうばかりのあたりまえな結論にいたるには、どういうわけだか、人はしばしばパラドックスを経由せねばならない。
これは非常に不思議なように思えるが、その間の微妙の消息については、この『四人の申し分なき重罪人』がつぶさに語っている。「ほっておけば一人の人間の命が危うくなるゆえ、対策を講じた」「芸術家がある樹に感銘を受けたゆえ、その樹を愛でた」「何も盗まれたものがなかったがゆえに、泥棒は入らなかった」「革命のことを誰も知らなかったがゆえに、革命はなかった」
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どうしてこれらがパラドックスになるのか? 不思議に思うものは本書に収められた四人の男の物語を読めよかし。まことにトートロジーこそは、パラドックスがほしいままに繁茂する、絶好の温床なのである。それは近く出るアメリカのある女学者の本が解き明かしてくれるはずだ。