痛茶とともに2(黒死館の巻)

 
粗製濫造の新書集団に埋もれながらも、クセジュ文庫はいまだに本屋の一角を固守している。頼もしいではないか。ペンギンブックス(青版)を範とした岩波新書を遠い先祖とする数々の新書のなかにあって、翻訳叢書であるクセジュは鬼子といっていいだろう。

なぜ鬼子なのか、それはページを開いてみただけで分かる。他の新書と截然と異なるのは、中に込められた知識のすさまじい集積度だ。簡明な文章で要領よくまとめられた叙述は、まるでマイクロチップの中身をのぞくようだ。

そして、この「黒死館逍遥」も、その集積度においてクセジュを思わせるものがある。70ページと少しばかりの片々たる小冊子に寄せ集められ組み合わされている知見には、ページを開いた何人も眩暈を禁じえまい。

それどころか、クセジュには不足がちな図版も大盤振舞がなされ、尽きることのない驚きに読者をいざなう。「サブルーズとはこんな景観のところだったのか!」、「「ウンブリアの泣儒(なきおとこ)」とはこんなんだったのか!」、「ミュイダッチ十字架はなんと面妖な形をしていることよ!」などなど。

今回のテーマは庭園散策。算哲のフランス絶対君主風な権力意志を体現する前庭と、建築技師のどす黒い怨念を秘め隠す、歪んだ修道院ともいえる裏庭。その対比が鮮やかな筆致をもってえがかれる。

そして開巻まもなく指摘される、算哲、テレーズ、ディグズビィの「狂わしい三角関係」という紋切り型の形容に秘められた恐るべき叙述トリック。これはどちらかというとプロデューサーの強権発動のような気もするけれど、それはともかく、このテーマは終り近くにふたたび登場し、松毬寝台の謎――なぜああいう仕掛けをあの場所に作らねばならなかったのか−−その心理を見事に説明する(本書p.67)。隠された物語はかくて75年後に掘り起こされた。ラングーン沖に散ったあの建築技師も「よくぞ見破ってくれた」と満足の笑みをたたえて成仏したことだろう。

[8/18後記]プロデューサーの強権発動ではないとのことです。早とちり失礼しました。



黒死館の旗を振るプロデューサー