痛茶とともに1(綺想宮の巻)

今年もコミケの季節になった。さいわい気温もそれほど高くない。そこでいそいそとりんかい線に乗り込み、痛茶とともにCRITICAと黒死館逍遥との最新号を買ってきた。

拙豚にとって大枚1500円を払ってCRITICAを購入する最大の目的は千街晶之さんの歯に衣着せぬ、という表現が生ぬるく感じるほど物凄い文章を読むことだ。その千街さんが今号ではかの『綺想宮殺人事件』を俎上に乗せるという。これを読まずしてとてもお盆はすごせない。(例によって以下煩雑さを避けるため失礼は承知のうえで敬称略。どうかお許しを。)

はたしてこれはスリル満点の読み物だった。かって横溝正史をして「匕首を突きつけられたような気がした」とまで言わしめた、かの「本陣殺人事件を評す」さながら、「サテだんだん大きな不満に入っていくのだが」とばかりに、過酷な追求の手はじわじわと『綺想宮』の首を絞めていく。

だがその結論はちと首肯しがたいものがある。この『綺想宮』論の論点は、『綺想宮』の裏テーマは「新本格殺し」だというものだ。しかしこれは論証の決め手を欠き、「そうかもしれない、でもそうでないかもしれない」という不確定性をともなっていると思う。

論旨を補強するため持ち出されるのは作者のTwitter発言その他の作品外の情報である。そういった補強資料を必要とすること自体が(ゲーデル的にいえば、)論の当否は作品の内部からは決定できないことを示していて、もうひとつ説得力が足りない印象を与える。

それに、いやしくも後期クイーンを意識するなら、そういった芦辺発言も「偽の手がかり」ではないかと疑ってみる必要があるのではないか。平たくいえば、あの手の発言も、憎まれ役に徹して、その芸風を確立するための作者のパフォーマンスである可能性はないのだろうか。関西人のサービス精神を甘くみてはならない。

よしんば芦辺が「新本格」に日夜五寸釘を打ち込んでいるというのが本当だとしても、それはあくまで個人の自由であって、読者にはあまり関係がないと思う。乱歩と高太郎の小説観がどれだけ相容れないものであろうと、両者をともに愛読する妨げにはならない。

あと、この『綺想宮』論は「探偵原理」に高い評価を与えていて、論の終わり近くになって「ここまで私が記してきた『綺想宮殺人事件」批判は、」探偵原理によって無効化されるとまで書いている。しかし、このくだりは、(もし皮肉でなければ、)芦辺の術中にまんまとはまっている観がある。「探偵原理」については、自分は少し違う考えを持っているので、ついでにここに書いてみる。

後期クイーン問題(「ゲーデル問題」という名称はいかにも胡散臭いのでこう言い換えさせてください)は、『綺想宮』では、作品内叙述によって明確に敵と見なされている。しかしそれを敵とみなすのは、「作者」ではない。エピローグに登場する「探偵原理」氏である。『綺想宮』p.369にはっきりと「私はこの物語の作者ではない」と「探偵原理」氏は言っている。

事実、作者自身が我慢ならないのは「後期クイーン問題」そのものではなく、ましてやそれをふりかざす批評家ではさらさらなく、むしろその発想の土台ではないだろうか。つまり「後期クイーン問題」という問題が設定されたとき、「犯人」は、偽の手がかりで探偵を惑わす超越的な存在として君臨することになる。(これはおそらく始祖クイーンのユダヤ的心情に由来する。たとえば『十日間の不思議』を見よ)。つまり犯人は探偵よりレベルが上のものとしてあらかじめ設定され、首尾よく探偵が犯人を指摘したときも、探偵はたかだか犯人と同レベルに格上げされるにすぎない。

だがこれは芦辺にとっては承服できぬことだ。なぜなら彼にとって犯人は、松本清張にとってそうであったように、憎むべき、そして倒すべき、自分と対等の敵であろうから。

そこで 「探偵原理」という、「後期クイーン問題」とは正反対に、探偵のほうを超越化する原理をでっちあげ、こういう芦辺的にはナンセンスとしか思えない「問題」の対消滅を図ろうとしたとのではないか。

蛇足ながら、この「探偵原理」と物理学用語の「人間原理」の関係が、「後期クイーン問題」と「ゲーデル問題」の関係と同じ程度に牽強付会なのは作者にとっては百も承知のうえだろう。イントロで活写されたアインシュタイン理論の滑稽な「実証」によっても、こうした理論に対する作者のスタンスはうかがい知れる。

先に述べたように、この「探偵原理」氏は作者が創造したキャラクターであり、作者そのものではなく、作者の代弁者でさえない。

つまり、目的は毒をもって毒を制すことにあるのだから、相手の毒に匹敵するほど面妖なキャラクターをこちらも用意しなくてはならない、ということだ。ゴジラに対抗するためにメカゴジラを作るようなものだ。

本当は、相手に対抗するには、「探偵原理」氏のもちだしたシェーファーの「スルース」だけで十分だったのかもしれない。しかしあえて「探偵原理」という超弩級の変ちくりんなものを登場させるところに、芦辺一流のサービス精神をみたい。



これが問題の痛茶だ!