ある『アムネジア』論をめぐって3

アムネジア

アムネジア


『アムネジア』はまだ見つからない。ひきつづき現物を見ずに話を続けることをお許し願いたい。

アムネジア(記憶欠落)と結びついた神秘体験といえば、まず次のようなパターンであろう。すなわち、雷に打たれたように啓示が閃いたあと、その内容を忘れてしまい、なにか比類を絶して素晴らしい体験をしたという漠とした印象だけが残る、というものである。いってみれば夢の中でトリックを思いついた推理作家のようなものなので、これを「夢の中のトリック」的神秘体験と名づけることにしよう。
しかしもちろん、記憶欠落と神秘体験は別の形でも結びつき得る。話を見やすくするためあえて卑近な例をあげると、たとえばあなたがある高価な本を、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったとしよう。ところが家に帰ると、まさにその本がちゃんと書架に鎮座していまする!――ああなんと神秘なことよ。皆さんにはそんな体験はありませんか。わたしにはときどきあります。

こういうときわれわれは、その本を以前買ったことをどうしても思い出さない場合でも、「でもここに本があるからには、いつか買ったのだろう」と思う。この神秘現象を合理的に説明しようとすれば、「すでに一回買ったのを忘れたのだ」とする以外にはないからだ。これが最初にあげた「夢の中のトリック」的な神秘体験と異なっているのは、ここには「忘れた」という自覚あるいは実感がない点である。すなわちここでは忘却は実感をともなわず、神秘体験を合理化するための説明原理として用いられる。

これが「夢の中のトリック」的神秘体験と異なる点がもう一つある。「夢の中のトリック」的体験では「想起」と「忘却」がペアとなっている。つまり「雷に打たれたような啓示」は、イデア界からの贈り物、プラトン風にいうならば想起である。それがふたたび忘却に沈むというかたちで両者はペアを組んでいる。ところが「二冊目の本」的な神秘体験においては、そもそも想起がない。(もちろん後日、一冊目の本を買ったことを何かの拍子に思い出すことがあるかもしれないけれど、そのときには神秘自体が消えている) ただ発端に不可思議な出来事があるばかりだ。

買った覚えのない本というのはあまりに些細な現象と思われるかもしれない。それではそれを非合理的な出来事と一般化すればどうだろう。その非合理を解消するために記憶欠損を持ちだすとしたら。
事実、『アムネジア』のなかでは、手を変え品を変えて常軌を逸した事件や不可解かつショッキングが現象が頻出する。しかし、それらがなぜ起こったか、あるいは誰の仕業かということは、おそらく考えても仕方のないことなのだろう。これはたぶんミステリではなく、whodunitやwhydunitやhowdunitを追求するものではないからだ。つまりこれは、不可解な現象を契機として、その原因へと遡行していく形の小説ではない。むしろ、記憶欠損という最後の説明原理を持ち出さざるを得なくなるまでに追い詰められていく小説なのだろう。