ある『アムネジア』論をめぐって2

アムネジア

アムネジア

『アムネジア』はまだ見つからない。不本意ながら再読せぬまま続けねばならない。
この小説には一つのシンボルが登場する。それはまず縦の線がさっと引かれ。そこに横の線が三本交わった形をしている。はやくいえばサイキックTVのシンボルマークだ。もちろん両者の形が一致したのは単なる偶然だろうけれど。

「あなたはそれを探してはならない」では、それはこう解釈されている。
 

この記号について著者は、<そんなに難しいものではない。ある意味で見たままだ>と述べている(著者からの直接の伝聞)ので、そんなに難しく考える必要はない。<本>。それ以外、何に見えるというのか。――別のものに見える、というのであれば、それはそれで一向にかまわないが。(p.17)

 
 拙豚には別のものに見えた*1が、それはそれで一向にかまわないということなので、ひとまず置いておくことにして、まずは「著者からの直接の伝聞」というところにこだわってみよう。
「著者からの直接の伝聞」――これは奇妙な言い回しだ。「伝聞」とは、読んで字のごとく、人伝てに聞くことを意味するはずなのに、「直接の」とはこれいかに。頭の固い校閲者ならチェックを入れるところかもしれない。

 しかしあえて「直接の伝聞」というこなれない表現を使ったわけは理解できる気がする。というのも、ネット上ではこの「直接の伝聞」とでもいうべきものにたまにお目にかかるからだ。自分の行為をいうのに「らしい」というとか(たとえばここ。)、ようするに、自分のことでありながら、あたかもよそごとのように語るわけだ。そもそも、このような類の小説にあっては、いや、どのような類の小説でも、作者があれこれ自作を注釈するのは望ましいことではない。やむをえず行うときも、すべからく直接の伝聞すなわち韜晦を旨とすべきだろう。

 それはともかく、この「直接の伝聞」は『アムネジア』の構成にもかかわってくる。最後のパラグラフで、この『アムネジア』という小説の本文は、誰とも分からない者から警察に送り届けられた文書であったことが判明する(本が見つからないため記憶で書いているので、もし間違っていたら失礼)。この小説においては読み続けるうちに読者は何度も意外な展開にショックを受けるが、このパラグラフはその最後の駄目押しのようなショックである。いってみれば屋台の親爺が「こんな顔だったかい」と顔を見せるようなものだ。

 誰がこんなものを送ったのだろう。失踪中の伶本人だろうか。だがそれならばなぜ、一人称ではなく三人称で書かれているのか。それとも伶以外の者が書いて送ったのか。それならば内容の信憑性が問題になる。この文章の中には、伶以外の者が知るはずもないことが書いてあるから。いずれにせよ、この最後のパラグラフによって、この小説は最後の断裂を起こす。それはいうならば直接と伝聞の断裂だ。
 

*1:つまり、盲腸の手術痕みたいな、「現実」の裂け目を縫い合わせた痕に見えたのだ。