ある『アムネジア』論をめぐって4

アムネジア

アムネジア


『アムネジア』はまだ見つからない。もう探すのも億劫になってきた。本を探しているとだんだんと部屋が散らかってきて惨憺たるありさまになる。あるいはこれが「あなたはそれを探してはいけない」ということだったのだろうか。そうか、探さないほうがいいのか! それなら気が楽だ。
アマゾンで見ても版元品切のようだし、かくなるうえは親切な小人さんが夜中にそっとポストに入れてくれるのを待つほかないのかもしれない。

それにしても、この「あなたはそれを探してはいけない」を一読してまず感じたのは、「これは自分がかって読んだ『アムネジア』と同じ本について書かれたものだろうか」という疑念だ。たとえば冒頭の映画のシーンなど拙豚はまったく覚えていない。虚空を落ちていく本のイメージも記憶にない。逆に強い印象を受けたかみのけ座のことは、一言半句もここでは触れられていない。かみのけ座はこの小説のキー概念だと思っていて、そのことは四年ほど前にこの日記でちょっと触れたことがある。
さらにいえば、この論では、作中作「記憶の書」が『アムネジア』の中で反復される、とされているが(p.24)、拙豚はむしろ「記憶の書」と『アムネジア』本編はネガポジの関係のように思われた。つまり昨日の日記で出した例でいえば、「記憶の書」が「夢の中のトリック」的な神秘体験であるのに対して、『アムネジア』本編は「二冊の本」的な神秘体験であるというように。本当に、ここで論ぜられているのは自分が読んだ『アムネジア』と同じ本なのだろうか? 

ところで都筑道夫に『怪奇小説という題名の怪奇小説』という短めの長篇があって、そこには「パープル・ストレンジャー」という小説を読んだ二人の登場人物が、同じ本を読んだにもかかわらず、まったく違う物語を読みとっていて驚くというシーンがある。いまそれをちょっと連想した。『アムネジア』とは、本当にこんな小説だったのだろうか? しかしそれを確認するのに必要なものは現在謎の失踪をとげている。

この『怪奇小説という題名の怪奇小説』には面白い仕掛けがある、いや、正確には、仕掛けを持つはずだった、というべきか。この本の元版(桃源社版)には、後の版にはない作者あとがきが付いている。それによると、もともとはこの小説は一つの物語の前半と後半が同時進行するという、一種実験的なものとして構想されたそうだ。そして物語の後半は、主人公の持ち歩く洋書『パープル・ストレンジャー』のなかでだけ語られるはずだった。主人公の小説家は、ある事件に巻き込まれながらもその洋書を読み続け、自分が体験する事件の後半部をあらかじめ知ってしまうが、もちろん気づいていない。
ところが雑誌掲載時のイラストに齟齬があり、不幸にもこの構想は連載途中で流産してしまう。ただそれでもなお一読に値する小説に仕上がっているところが都筑道夫のすごさなのだけれども。

後に出た文庫版(集英社文庫)では、このような舞台裏を披露したあとがきはきれいさっぱり削られ、その代わり、小説の終り近くに、これは精神病院に入院中の患者の話ですよ、という一ページくらいの断り書きが加えられている。つまり、構想の流産からくる不備を、主人公の狂気を匂わせることで隠蔽し、というか不備を狂気に押しつけ、あるいはしわ寄せさせた形になっている。

ここで話は『アムネジア』にもどるが、この『アムネジア』には一つの野心が込められていると感じる。何かというと、登場人物の狂気によっても隠蔽できないほどの世界の不備(あるいは断絶といっても裂け目といってもいいけれども)を、創造できないものかという野心だ。あの『ドグラ・マグラ』でさえも、「狂人をめぐる一事件を狂人の主観で描いたもの」と解釈すれば一応の整合性はとれてしまうことを考えれば、これはおそるべき試みといえよう。「人を発狂させる小説」というのがもしあるとすれば、その栄誉ある称号は『ドグラ・マグラ』よりもむしろこの本にふさわしい。
(『アムネジア』の話は今日で一応おしまい。続きはまた本が見つかったときにでも……)