あるLegitimist(正統主義者)のこと

 
「人類の最も古く最も強烈な感情は恐怖であり、恐怖のなかで最も古く最も強烈なものは未知なるものの恐怖である」――「文学における超自然の恐怖」冒頭の有名な一節だが、こういう物言いはどんなものだろう。小林秀雄風のはったりめいた断言癖はおくとしても、別に恐怖が最古の感情であろうと、五分前に誕生したものであろうと、そこにどういう違いがあるのか。古いということになんらかの価値はあるのだろうか。

生まれたての赤ん坊など観察していると、感情としては「恐怖」より「笑い」が先だと思わずにはいられない。個体発生は系統発生を繰り返すという言が正しければ、人類の発達史においてもまた笑いが先ではなかろうか。恐怖を感じるには滑稽を感じるよりも、より高度の知能の発達を要する――なんとならば、「想像力」というものがそこに介在せざるをえないから――その点からいっても「恐怖」が最古の感情という説はどうも分が悪い。

しかしそんなことはラブクラフトにとっては、どうでもいいことだったろう。重要なのは客観的真実ではない。彼にとって、恐怖は、「最も古く最も強烈な感情」でなければならないものなのであり、そこに彼のアイデンティティの幾分かはかかっていたとおぼしい。

しかしもちろん、誰もがそう思うとは限らない。怪奇小説愛好家のなかには、たとえば、「恐怖とは人類が自らの感覚を洗練させた果てに見出した、終極の感情である」――こういった定言のほうを好む人も必ずやいることと思う。しかしラヴクラフトはそういう人ではなかった。

われわれは、彼が自家のもっともらしい系譜を友人に書き送り、十八世紀風の鬘と衣装に身を包んだ自画像をいたずら書きしたことを知っている。これらの性癖は、正統主義者のものといってもまず間違いではないだろう。

しかし世の常の正統主義者・尚古主義者と異り、幸か不幸か、彼には自然科学のセンスがあった。進化論を承服せざるを得ず、自分が猿や黒人と先祖を同じくすることを承服せざるを得ないセンスがあった。もしかしたら、古代の海に棲息した多足類や軟体類から一直線に血のつながった自らの家系を幻視さえできたかもしれない。

彼の作品の独創性は、一にそこにかかっている。あの比類なき「インスマウスの影」のラストシーンを見るがいい。あたかも、かの『木製の王子 (講談社文庫)』のように、そこでは正統性は逆転し、系譜は倒立する。