誰にも似ないように

puhipuhi2008-09-12

シプリアン・ダナルクは他人と同じであることに我慢ならぬ男だった。いっとき美術に凝ったこともあった。いかなる流派にも属さぬ、誰も評価したことがない絵を愛した。だがそういう作品もいずれは人の知るところとなる。

次にシプリアンは詩作に耽った。誰も夢想さえしたことのない詩を書くのだ。しかし、とどのつまりは、ものを書くときわれわれはいつも無意識にせよ模倣をしていることを発見するに終わっただけだった。

そしていま、シプリアンはテーブルに整然と並べられた五フラン硬貨を前に難しい顔をしている。この中から一枚を選びたい、だがなぜその一枚を選んだのか、その理由に気付いてはいけない。これは「無作為に選ぶ」というより数段難しい。なぜなら無作為に選びたければサイコロでも振ればいいが、それでは気難しいシプリアンを満足させることはできないだろう。サイコロの目に従って選んだという理由がついてしまうから。

ある朝、その企てはついに成功した。やれやれとシプリアンがパイプを手に一息入れているとき、恋人のミュザレニュがやってきた。

「ミュザレニュ、このなかから一枚とってごらん」
「ほら、これでいいの?」
「なぜこれを取ったんだい」
「知らないわ」
「思いだしてくれないか」
「いやよ、また変なことにこだわってるのね。それより昼ごはんにしましょう」

そこに友人のアンブロワーズ・バフーフが来た。客観的真実を追究するあまりに歴史家から医学生に転進した男だ。このあとの議論は要約を許さないので原文から直接翻訳:

――バブーフよ、君はぼくが本当に自由と思うかい。
 
――友よ、それはありえないこともない。ときたまぼくらは風変わりな怪物に出会う。現代のもっとも優れた外科医のひとりがつい先日、完璧な両性具有者の手術をした。これこそ自然がすくなくとも一度は決定不能におちいった証しじゃないか。ブシネスク氏という博識の物理学者が、ある条件のもとで液体は弾性体理論の基礎方程式を無視して自由気ままに流れることを立証した。ボトルー氏は優れた哲学者だが、宇宙の法則は絶対ではないと信じている。それから天文学者が星からの光を観測したところ、地球がそこで回転している宇宙は厳密にいうと幾何学的空間に帰着できないことがわかった。それは三次以上の次元をもっているかもしれないし、あるいは三よりすくないかもしれない。幾何学さえ無謬でないなら、シプリアン、きみが自由でないなんてありえようか。だけど自由だからってどうしたっていうんだい。そのとききみは逸脱した存在となる、単にそれだけのことだ。ものごとを決定するあらゆる法則を知るほうがずっと価値がある。ともかく研究だ。さあ脳髄を裂こう。
 
――だめ、とリリが言った。昼ごはんにしましょう。
 
――ミュザレニュのいうとおりだ。ぼくの意見は食事が終わってから言うよ。もし話題が変わってなければの話だけど。

 
というところでシュオブ最晩年の作品「ユートピアの対話」は終わる。(いやしくもシュオブをこんなへたくそな文章で読みたくないわいという人はすべからく原文につくべし)

しかしこの短篇が本当にここで終わっているのかどうかはわからない。なぜならこれはベルナール・ゴーティエという研究者がナント市立図書館から掘り出してきた遺稿だから。

さらに言えばシュオブのオリジナルではない可能性もないことはないと思う。シュオブは生計の資として翻訳をしていたから、自筆原稿だからといって本人の作品である保証は必ずしもない。しかしもし本人の作品なら、シュオブが(ちょうどリラダンやヴァレリーと同じように!)骨の髄までの文人でありながら当時の最先端の科学にまで通暁していたことを示す得がたい作品だ。

う〜ん〜でもしかし〜こういうラプラス的決定論への反逆みたいなのはシュオブの作品としてどうかな〜どうかな〜どうかな〜。ともあれ、新発見作品ということで、無許可で翻訳刊行するのはまずいと思うので文フリあわせの本には入れません。