優雅な下品

カニバリストの告白

カニバリストの告白

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サドの小説とサドの書簡のあいだには少しばかりへだたりがある。――凄惨と退屈とがまだらに混じる小説は通読が苦痛だが、書簡は読んでたのしい。なぜならそこには彼の小説に乏しいユーモアと、それからやはり小説に乏しい、貴族的な優雅さがあるからだ。アンドレ・ブルトンが『黒いユーモア選集』にあえて書簡からの一節を採ったのもむべなるかな。

マリオ・プラーツは『ロマンティック・アゴニー』の一章「聖侯爵の影」で、サドの小説がいかに後代に影響を及ぼしたか縷々説いた。それはその通りなのだが、しかし同時に、「優雅な下品さ」の精華たる彼の書簡もまた、より目立たない暗流となって現代文学に流れ込んでいるのではなかろうか。

「優雅な下品」というと、同時代人モーツァルトの書簡、あのスカトロジーにまみれた書簡も思い浮かぶ。しかし両者は紙一重の差で違う気がする。無邪気と無垢の違いか。何を言ってるのか自分でも分からないけれども。

ともあれ、めでたく三冊目の翻訳が出たデヴィッド・マドセンは、この「優雅な下品」を一身に体現する当代得がたい著作家だ。今度の『カニバリストの告白』も例によって全体の半分以上が下ネタ描写と悪ふざけだが、嬉しいことにミステリ仕立てになっている。出だしをちょっと引用すると:

 私はトログヴィルを殺していない。誰がなんと言おうと殺していない。トログヴィルのウィスキーに効き目の穏やかな催眠薬を混入したことは認める。トログヴィルが眠り込んだあと、全裸にして寄木仕上げの床にうつぶせに転がし、小刻みに震えるクリームのように滑らかな肛門にズッキーニを挿入しておいたことも。しかし、私がオルソリーネ通りのアパートを辞した時点では、トログヴィルはちゃんと生きていた。それがだいたい九時ごろのことだ。ところが午前零時十五分前、糸の切れた繰り人形のようにだらしなく手足を広げた姿で発見されたとき、トログヴィルの胸は大きく開かれて血にまみれ、つかみ出された心臓は左の掌の上にちんまりと置かれていた。やったのは私だと彼らは言う。私はトログヴィルを軽蔑していた。憎み、恐れてもいた。だが、絶対に殺してはいない。

いやはやたまりませんね! 池田真紀子氏のつややかな訳文も絶賛に値すると思います。