近況


田村書店二階ではここ最近ずっとドイツ語の面白そうな本が出続けている。深田甫旧蔵書がまだ底をついていないのだろうか、それとも他のどなたかが処分されたのか―― 今日はルドルフ・アレクザンダー・シュレーダー作品集の端本を500円で見つけてすごくうれしかった。拙豚がこの人を知ったのは、E.R.クルティウスの『ヨーロッパ文学評論集』のおかげなのだが、まずはちょっとわき道にそれて、クルティウスがシャルル・デュ・ボスを語っているところから:

しかしジッドもモーロアもロジェ・マルタン・デュ・ガールもジャック・リヴィエールも、私が要約して「形而上学」と呼びたいと考えている、そしてドイツの生の要素をなしているものへの関係はもっていなかった。デュ・ボスにはそれがあった。彼の精神にとっては、ノヴァーリスラクロより刺激的であり、マイスター・エックハルトスタンダールより挑発的であった。(『ヨーロッパ文学評論集』 p.212)


文中の「形而上学」は、あまり適切な表現ではないと思う。哲学的なニュアンスはここになく、ようするに事物を超越した天上的なるものへの憧憬というかそういうものを意味しているのではないか。日本でいえば、やはりシャルル・デュ・ボスを耽読していた中村真一郎のある種の作品を思い浮かべれば分かりやすいかもしれない。
それはともかく、ドイツ人のラテン文学研究家(いわゆるロマニスト)の最良の成果は、この、クルティウス言うところの、「ドイツの生の要素をなしているもの」と分かちがたく結びついていることによって、われわれ異国人の胸をも締め付ける。そのよい例は、クルティウス自身の『ヨーロッパ文学とラテン中世』であり、ほかにもルドルフ・ボルヒャルトであるとか、エーリッヒ・アウエルバッハであるとか、一読酩酊感を覚える本には事欠かない。
ルドルフ・アレクザンダー・シュレーダーもそういった人のひとりだ。ふたたびクルティウスの語るところを聞こう:

ウェルギリウスは今日でも、ドイツでは不人気な詩人です。それどころか、今日では、ますますもって不人気だ、といわなくてはなりません。…(中略)…しかし少数派であろうと、きわめて微々たる力にすぎなかろうと、伝統の存続-死滅現象に、ある任務を担うことはできるのです。…… 我が国にはまだひとり、詩人がおります。彼はドイツの偉大な教養伝統の嫡子であると同時に、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル以後の我が国に不世出の翻訳家でもあります。私の申しますのは、ホーフマンスタールとボルヒャルトの若き日の友人、ルードルフ・アレクサンダー・シュレーダーのことです。……ですから、彼がここ何十年も携わっている労作、ドイツ語訳『アエネーイス』に期待をかけてもよいでしょう(同書pp.24-25)


神保町で偶然出会った編集者のKさんによると、3月14日にトランプの形をしたとんでもない本がでるらしい。ホワイトデーに何を贈れば迷っている諸氏はためらわずこの本にすべし。

足穂拾遺物語

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