「私の男」をめぐって1(種への旅の巻)

私の男

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時系列の扱いとテーマからは夢野久作の「瓶詰の地獄」を連想させる。しかしそれはもちろん外見上の類似にすぎない。より本質的に通底しているのはカルペンティエールの「種への旅」だろう。

時系列に沿ってストーリーをたどればこれは喪失の物語だ。しかし作者のすばらしい技巧によって、まさにカルペンティエールそこのけに、時間は逆へ逆へと流れていき、物語は愛の成就の物語として、物語られる。ラストにいたって登場人物たちに祝福をおくりたくなるのは、拙豚のどこかがおかしいからだろうか。いやそんなことはない、そんなことはないはずだ。自ら省みても自分にロリコン趣味はないと思う。

このstrange storyを成立せしめる極度に人工的な舞台設定には賛嘆のほかはない(その意味では、小説というよりは戯曲の文法にのっとっているのかも)。どこにも広がりようもないという意味で物語は閉じているが、それゆえに、あるいは愛すべき登場人物のゆえに、小説自体はおおきく広がっているのだ。