もうひとつの目玉の話



「目玉の話」の訳者は言う。「要するに、『目玉の話』は話し相手を前に置いた告白として読んだほうが、ぐっと臨場感も面白みも増すのである。原題の「histoire(お話)」という表現には、そういう具体的な語りの行為が見えるような気がする。/そこでこの翻訳では「です・ます」調を採用し、主人公の「私」による告白体としてこの小説を訳すことにした」(p.146)

しかしこのスタンスと真っ向から矛盾する文章が『目玉の話』本文の中にある。p.81の最後の行だ。「この物語を最後までお読みいただければ、この疑問にやがて解答がもたらされるはずだということがお分かりになるでしょう。またこの解答は、玉子のお楽しみによって私たちに穿たれた空虚の大きさを教えてくれたのです」――語り手が聞き手を前に告白しているならば、この「お読みいただければ」は「お聞きいただければ」でなくてはまずいのではなかろうか。

そこで原文を見ると謎はますます深まるのだった。"La fin du récit montrera que cette interrogation ne devait pas rester sans réponse, et que la réponse mesura le vide ……" 拙豚の貧しいフランス語の知識で大胆に言えば、ここは「お聞きいただければ」と訳しても問題ないと思う。それなのになぜ訳者は自己の想定に反して、あえて「お読みいただければ」と訳したのだろう。「話し相手を前に置いた告白として読んだほうが」うんぬんというのは、後付けの理屈にすぎないのか。それとも誰か他の人に手伝ってもらった跡が、うっかり残ったのか。

それはともかく、「目玉の話」を読んだあとでいやおうなく連想するのはもうひとつの目玉の話であるところの「夏と冬のソナタ」だ。主人公を巡る二人の女性のうち一人が非業の死を遂げるというストーリー上の類似もさることながら、クライマックスシーンにおける目玉の使い方(「夏冬」で言えばノベルス版のp.456)の驚くべき照応を身よ! これは偶然の一致にすぎないのだろうか。

そう言えば、上で引用した「この物語を最後まで……」はミステリで言えば「読者への挑戦」だ。その解答(真相)は本文中では明確には説明されていない。この話題は明日に続く……かもしれない。