「目玉の話」のですます調

 
驚くべき清新な翻訳だ。既存の生田耕作訳と比べてどちらに軍配をあげるかは人それぞれだろうが、少なくともこれを読んだ後では生田訳が古色蒼然とした、(文字通りの)前世紀の遺物に見えてしまうのは否めないと思う。

しかし翻訳の優劣よりもむしろ興味あるのはどちらのスタイルが原文により忠実なのかということだ。換言すればどちらがより奇を衒っているのか。ある文学作品の訳出にふさわしい文体は本来ただ一つしかありえないはずだ(異論ある人もいようが私はそう信じる)。それがこうも趣の違うのが二つ出ると困ってしまうではないか。

それはともかく今回の翻訳はですます調で訳されている。これにはメリットデメリット両方あると思う。

メリットとしてまずあげるべきは、ですます調によってエロチックな場面がいやがうえにもエロチックになることだ。宇能鴻一郎の例をあげるまでもなく、ですます調とエロチシズムはたいそう親和性がよろしい。

それから別のメリットとして、これは訳者も解説で似たようなことを言っているが、語りの口調を取り入れたことによって、この小説自体が枠物語となり、奥行きを深めるということがある。つまりこの小説の外側(枠の外側)で、見えざる語り手が見えざる聞き手に向かってこの話をしているという趣向になる。この聞き手とは誰だろう。「目玉の話」という位だから窃視者のようなものだろうか。それとも神のような超越者か。

一方デメリットといえば、なんともいえぬ違和感だ。そもそもこの小説はストーリー自体が語り口調に向いてないのではなかろうか。各章に一つはあるショッキングな視覚的シーンは物語的というよりは映画的だし。

なによりこの小説の各章各章は、あたかも実際のセックスのように、クライマックスの後虚脱して小さな死を死ぬ。そしてそれからおもむろに不連続的・断絶的に次の章へと入っていく。平たく言えば、この小説は物語の理想――お次はいかになり行くか〜という興味で読者にページを夢中でめくらせていくといったものからは遠い、痙攣的な進行をする。そういうものを語り口調で物語ってしまうというのはいかがなものなのか? それともこの違和感は生田訳を先に読んだが故の刷り込みのせいなのか。この訳ではじめて「目玉の話」に接する若い人の意見が聞いてみたい。

それにしてもこの訳題は(・∀・)イイ! この調子で「お日様のしりの穴(L'anus solaire)」「僕の母さん(Ma mere)」「できないこと(L'impossible)」「Oさんの話(Histoire d'O)」「もてなしの決まり(Les lois de l'hospitalite)」「むごい話(Contes cruels)」とかいろいろ出ると、さぞ面白かろうと思う。光文社さんよろしく!