縞に関する疑問 (Question de la Strie)

 
疑問といっても別に縞パンツは縦縞であるべきかそれとも横縞かといったようなことではない。だいいち縦縞パンツなど想像することさえできないという御仁もおられよう。

そうではなくてこの「縞」は実は吸血鬼(レイミア)を意味する。くわしくは大瀧啓裕「魔法の本箱」*1の二六四ページを見られたし。人間の不幸は多岐にわたり、悲惨はおよそいろいろな形を取ってあらわれる。すなわち広大な地平線の彼方まで虹のごとくに及んでいるかに見える。……虹のごとくに、と私は言った。なぜそのように美しいものが私にとっては醜悪な事柄を語るための比喩となるのだろうか(ベレニイス 吉田健一譯) すでに何を書いているか分からなくなった。いやもう、七月に入ると暑くなって困る。

さて本題だが、「文豪怪談傑作選 森鷗外集」の目次が幻妖ブックブログで公開された。御覧の通り創作と翻訳とが互い違いに配置されている。この手を東氏は以前に「伝奇の匣」の槐多集でも詩と散文の入れ子という形で試みていて、その独特の効果に一読後感服したことがあった。それを縞効果と呼ぼう。縞状配列は一つ一つの作品を、前後の作品からのもたれ合いを絶ち屹立させる効果がある。だから特に読み慣れたテキストをもう一度新鮮な目で見ることを促す。バロウズのカットアップ手法にもちょっとだけ似た効果だ。「縞」とはやはり死者を蘇らせるレイミアであったのだ。ベレニスだって墓場からよみがえった。

何かふたたび混乱してきたが、縞効果の第二の特色として、生涯作品の折り畳みというのがあると思う。槐多の場合作品量といっても知れているが、鷗外ともなるとその全集は眩暈がするような規模となる。文庫本という壷中の空間に天と地、とは言わずまでもテーベス百門の大都を詰め込もうと思えば、鏡像の反復めいた入れ子構造を使わざるを得ないのではないか。

最後に「我百首」についてひとこと。これはマルセル・ベアリュなど思わせる実に不思議なテキストで、鴎外の全作品の中で最も幻想文学的なものと言える。琴の爪で目を裂いたり顔をアイロンで熨したりするゴシックロマンスもかくやの残虐味は、塚本邦雄がつとに称揚するところのものでもある。未読の人は乞御期待。