空虚な虚(うろ)

 

日本怪奇小説傑作集1 (創元推理文庫)

日本怪奇小説傑作集1 (創元推理文庫)

 
まだ最初の数編しか読んでいないが、巻頭にハーンの「茶碗の底」を持ってきたところがこのアンソロジーの性格を決定しているように思う。田中貢太郎の脚といい皆川博子の風といい、まず冒頭で読者の度肝を抜かせることが東雅夫氏の得意技(の一つ)であるらしい。
それはともかく最初に戻って、ハーン作品として選ばれたものが例えば「耳なし抱一」でも「むじな」でもないことが、この本が怪談やホラーのアンソロジーではなく「怪奇小説傑作集」であることを高らかに宣言している。つまり作品選択の主眼が「恐」や「怖」より「怪」や「奇」にあるということである。では、その「怪奇小説」とは何物であるのか。先日読んだ『青い館の崩壊』にはこうあった。

怪奇小説では過剰な説明をしてはいけない。空虚な部分は空虚のまま残し、その虚(うろ)を読者の内部へ憑依させるような書き方をすることが肝要である。いきなり妖魔が跳梁したりすると、それはホラーではなくファンタジーになってしまう。最初は確固たる現実世界(擬似現実でも可)が必要である。[…中略…]こうして足場を崩し、読者が宙吊りになった瞬間を見計らって意味性の剥落した怪異を提出する。(p.329)

「空虚なまま残された空虚」「意味性の剥落した怪異」・・・「茶碗の中」の茶碗などはまさにその好サンプルであろう。他の作品、例えば漱石の「蛇」でも

 「覚えていろ」/声は慥(たし)かに叔父さんの声であった。同時に鎌首は草の中に消えた。(p.69)

と、誰が「覚えていろ」と言ったかは明示されていない。

 「叔父さん、今、覚えていろと云ったのは貴方ですか」/叔父さんは漸(ようや)く此方(こっち)を向いた。そうして低い声で、誰(たれ)だか能(よ)分らないと答えた。今でも叔父に此の話をする度に、誰だか能(よ)く分らないと答えては妙な顔をする。(同頁)

自分が言ったのでなければ、なぜ「叔父さん」はきっぱり否定しないのだろうか。なぜ「誰だか能く分らない」と曖昧な返事をするのだろう(それにしてもこのラスト二文は、「覚えていろ」が語り手の空耳でないことをさりげなく示していてうまいと思う)。
一見まったくストレートなホラーに見える「悪魔の舌」にしても、「悪魔の食物でなければ満足できない」はずの主人公が「常に酒店や料理屋に姿を見せ(p.97)」ていたり、「伊豆半島の寒村に空屋を借りた(p.103)」はずが富坂の近くの美麗な住居(p.97)に居たりと、コリン・ホルト・ソウヤーみたいな混乱を見せ、現実か妄想か見分け難いところまで読者を連れていくのである。