『The End』(倉阪鬼一郎)ISBN:4575234885


演奏が終わって、まだオーケストラの残響も消えやらぬうちに盛んに拍手をするのと同じくらい、この種の傑作を読んだとたんに感想を書くのは無礼極まる行為なのかもしれない。まあしかし感興の失せぬうちにメモ程度に書き留めておきたくもあるなり。
「地球の長い午後」ばりの想像力に満ち満ちたこの迷宮冒険物語が、生き生きと動き出すのは、実に最後から三番目の章、灰色に光る球体との哲学問答

声「では<ない>という言葉があるのはなぜか。<ある>という言葉が<ない>状態は考えられないか」
私「<ある>という言葉が<ない>状態?」
声「そうだ。<ある>という言葉がまったく必要とされない世界を想像することができるか」
私「……」(本書p.319)

ここらへんからである。ここに至って「虚体」「ゼロポイント」「非在」「夢魔」と当たらずとも遠からぬ言葉の周りをぐるぐると廻ってきた主人公の思考は、ついに「ない」という至高の存在、おのれと世界を認識するためのキーワードに到達する。それを発見した主人公を描写する文章の躍動はまことにここちよい。

橋の表面はひび割れていた。かつて無数の影がここを渡ったのだろう。いまはもういない。いまは、もう、いない。い、ま、は、も、う、い、な、い。みんな去ってしまった。微細な亀裂に面影を遺して去った。私もそのなかの一人だ。
風が吹き渡っていく。赤い橋の中央を色のない風が吹く。まだ橋の向うにいる者たちに冷たさを伝える。終わりだ、終わりだ、と囁く。
戻ることはできない。戻っても何もない。もう川へ流すものは持ち合わせていないのだから。言葉はすべて流してしまったから。私は向き直り、塔を仰いだ。(本書p.339)

この本書第九章のように「ない」という否定語が、世界と自己を描写する言葉としてこれほど確信に満ちて、これほど喜ばしく使われている小説は寡聞にして拙豚は知らない。
まあ要するに拙豚はこの本を一風変わった聖杯探求物語、例えば『アルゴールの城』や『耳らっぱ』がそうであったような、聖杯探求物語を現代に蘇生させる優れた試みと読んだがどんなものだろう? こういう邪道な読みは作者から怒られるかしらん?

(明日に続く…かもしれない)