中世フランス詩という魔笛


 

毎度お騒がせの国書刊行会がまたまたすごいものを出した。宮下志朗氏の翻訳・註解による『ヴィヨン全詩集』である。問題の国書税も『マルセル・シュオッブ全集』などに比べればだいぶ手加減してくれているのがありがたい。日本国も国書に倣って減税をしてくれないものだろうか。

矢野目源一、佐藤輝夫、渡辺一夫、鈴木信太郎から天沢退二郎、堀越孝一、そして今回の宮下志朗氏にいたるまで、中世フランス詩に魂を奪われた人たちは文学史に連綿と続いている。もちろん宮下氏が最後尾ということはあるまい。魔笛に誘われて行進に加わる者はこれからも出てくるだろう。

そして不思議なのは、訳されるたびに作者ヴィヨンがどんどん若返っていくことだ。今回の訳詩に映るヴィヨンの面影はいままでで最年少の感じがする。「俺のものは何もかもお前らにくれてやるよ、じゃあな、あばよ」みたいな感じで延々と続く詩行はデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』みたいな切なさにあふれていて、今に生きるわれわれの心をも打つ。延々と続くその長さに言葉とは裏腹の未練が感じられて切ないではないか。

ちなみに矢野目の「ふともも町の角屋敷」の一節は、今回はこんな感じに訳されている。弁天様から花唇まで。思えば遠くに来たものである。


 
むかし渡辺一夫が太宰治の「ヴィヨンの妻」を読んで「ヴィヨンはこういう方ではなかったと思います」(大意)とどこかに書いたら太宰が怒って「お前は翻訳だけやってりゃいいんだ」(大意)と言い返したことがあった。太宰の見たヴィヨンは渡辺一夫の見たものよりずっと若々しいものだったのかもしれない。

この本には帯裏にマルセル・シュオッブの言葉として「力や、権力や、勇気だけが、なにがしかの価値を持った世紀にあって、彼は小さく、弱く、卑怯で、嘘つきであった」とある。おそらく太宰とシュオッブのヴィヨン理解には共通するものがあったのだろう。ひとり渡辺一夫だけが異質なのである。

だから太宰は怒ったというより渡辺一夫の無理解にあきれたのかもしれない。キリストに背くキリスト者としてのヴィヨン——それはおそらく渡辺一夫の理解の埒外にあったものだろう。

それはともかく書誌も広く目配りがきいていてたくさんのことを教えられた。書目のたんなる羅列ではなく「(この本は) もっと読まれてよい」「これは全訳とはいえない」「以下のサイトがおすすめ」などの短い評価コメントがついているのがうれしい。(ちなみにスティーヴンスン「その夜の宿」は古典新訳文庫から南條竹則氏による新訳が出ている)