りんごジュースの謎

またまた昨日の続きである。どうもミステリの話をはじめると、わが身は山本リンダと化して、どうにもとまらなくて困る。

それはともかく、昨日は、『聖女の救済』と『容疑者Xの献身』はほとんど同じ構造をしているのに、前者には「純粋本格」を感じ、後者は本格と呼ぶのが躊躇される。それはなぜか、という謎をとりあげた。

それを考えるために、こういう思考実験をしよう。ここにりんご果汁と水を半々に混ぜた液体があるとする。これを「りんごジュース」と呼んでよいものか。

これは大多数の人がイエスと答えると思う。「りんご果汁100%でなければ『りんごジュース』とはいえない」という人はごく少数だろう。

では、りんご果汁と青汁を半々に混ぜた液体の場合はどうか。この場合はおおよそ三つの立場に分かれるだろう。

  1. りんご果汁の含有率は先ほどの例と変わらないのだから、これも「りんごジュース」と呼ぶべきである。でないと一貫性が失われる。
  2. これを「りんごジュース」と呼ぶのは生理的にためらわれる。
  3. 飲んでみて美味かったら「りんごジュース」と呼んでやってもいい。

 
まあ早い話が、『容疑者X』の犯人のキャラクターは強烈に青汁感がするが、『聖女』の犯人のキャラクターには青汁感を感じない。むしろ水と感じる、ということだ。『容疑者X』と『聖女』を分けるポイントは、すくなくとも自分はここにある。

「不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない」とヴァン・ダインは二十則の第三条で言っている。ヴァン・ダインの言いたかったのはこういうことだったのか。とようやく今になってわかった。ヴァン・ダインはようするに「青汁を混ぜるな」と言っているのだ。もしかしたら悪名高いノックスの第五戒律も同じ趣旨なのかもしれない。

だがちょっと待てよ、という気はする。石神は確かに異常な人物であるが、まったくの他人とは思えない。そこには作品から立ち上がってくるリアリティがあって、それが青汁となっている。しかし『聖女』の犯人が青汁でなく水なのは(つまり絵空事のキャラクターとしてしか感じられないのは)単に自分が男性であるからなのではないか。

ここらへんはちょっと女性の意見が聞いてみたいところである。女性から見ると『聖女』の犯人も石神と同程度に生臭く感じられるのだろうか。