敵ながらアッパレ

まだまだ続くミステリの話。誰も読んでないような気もするけれど、年寄りというのは物覚えが悪く、いったん思いついたことでも次の瞬間には忘れてしまう。だから忘備のためにここにメモしておくのである。

さて、19日の日記で『聖女の救済』の叙述トリックに「くそう卑怯な」と怒った話をした。事実叙述トリック作品には「おのれ謀(たばか)りおって」と怒りたくなるものと「敵ながらアッパレ」と讃えたくなるものがある。これはフェアとかアンフェアとかには関係ない。フェアであればあるほど怒りたくなるものもある。こうした読後感の違いはどこから来るのか。

自分の好きな叙述トリック作品は「叙述トリックの他は何もない」もの。古典的な例でいうと、フランスミステリの『〇〇〇〇〇』とか、ビル・バリンジャ―の『〇〇〇〇〇〇』とか。日本で言えば小泉喜美子の『〇〇〇〇〇〇』とか泡坂妻夫の『〇〇〇〇〇〇』など。つまり「すべてが読者を騙すために構築されている」というその構築美にしびれるのだ。逆にそうでなく、付けたりみたいに叙述トリックが使われていると、釈然としないものが残る。

叙述トリックと本格ミステリとは次元の違うカテゴリだと思う。つまり「本格ミステリではあるが叙述トリックではないもの」は当たり前に存在するし、「叙述トリックではあるが本格ミステリではないもの」も当然存在する。そもそも叙述トリックはミステリ特有のものではなく、「叙述トリックホラー」とか「叙述トリックSF」にも作例はある。

しかし叙述トリック作品を本格に含めたくなる人も気持ちはよくわかる。そこには本格ミステリと共通する構築美があるから。だが両者の本質的な違いについて、厳然とした一線もあるように思う。その違いはというと、手がかりあるいは伏線の有無というか強度であろう。

「男だと思っていたら女だった」の例でいうと、叙述トリック作品では、「Xは男ではありえない」という手がかりを途中で提出する必要は必ずしもないと思う。鮎川哲也の短篇「〇〇〇〇〇」みたいに「あれれ、なんだか変だな。でも変な作家だからこのくらいは変でもしかたないかな」と頭の隅で微かに感じるくらいの違和感があれば伏線としては十分だと思う。あるいはそんなものさえなくて、終盤で大驚愕させるのもまたよろし。