『星新一の思想』再説

  
浅羽さんといえば、『星新一の思想』は実に面白い本で折に触れて読み返している。もちろんそこには浅羽節ともいうべき独特の文体を読む快感もある。

そのあるページであるショートショートについて、「陰惨な結末」と書かれてあった。だが具体的にどのように陰惨なのかは書かれていない。それが気になって、図書館からあの分厚い三冊本『星新一 ショートショート1001』の下巻だけを借り出してきた。星のショートショートを読むのは久しぶりで、たぶん四十年ぶりくらいだと思う。

こういう千ページを超える本を端から順に読んでいくと、文庫本でたとえば『ボッコちゃん』なら『ボッコちゃん』を一冊だけ読むのとは、まったく違った読書体験を味わえる。断片の集積からなる超大河小説を読んでいるような感じを受ける。

また、この『ショートショート1001』を順に読んでいくと、浅羽さんの本で扱われていないショートショートが相当数あることがわかってくる。なにしろ全部で千四十篇くらいあるのだからそれも当然というか当然すぎる話である。

あまりいいたとえでないかもしれないが、『星新一の思想』という本は、北海道の原野に幹線道路を通しているような本である。つまりその周りにはまだまだ未開の原野が広がっている。しかもそれら未開の原野は、代表作のヴァリエーションとか自己模倣というのでは必ずしもなく、むしろあまりにも異形なので『星新一の思想』から外されたと思えるものも多い。特に後期の作品にそれは目立つ。

アマゾンのレビューに「星新一作品で作品論を書くことは、1001編のショートショートをつかって、自分だけのパズルを組み上げるようなものだ」と書いていた人がいた。これは卓見だと思う。つまり星作品を論ずるには、ショートショートの一篇一篇という点を結んで自分なりの図形を描くしかなく、またそれが限界なのではあるまいか。つまりその創造の核心まで到達するのは至難ではなかろうか。なにしろ「人間らしさ」から遠いところにある存在だからだ。これもいいたとえでないかもしれないが、アルファ碁との対戦で従来の定石が通用しないようなものだろうか。

『星新一の思想』では「アスペルガー」「太陽と北風」「鍼のツボ」「商品としての小説」などのさまざまの斬新な視点が導入されていて目からウロコが落ちまくるが、これらとて原野をおおいつくすには至っていないのではあるまいか。あらためて星作品を大量に順番に読んでいくとそんな感じがしてくる。