老人といえばもう一つ思い出したことがある。昨年十一月のことだ。もう八か月も前のことなのでそろそろばらしてもかまうまい。
その年の九月に出した『記憶の図書館』をめぐって『週刊読書人』で西崎憲さんと対談をした(西崎さん、その節はお付き合いくださりありがとうございました)。そのときの紙面の対談者紹介欄で、わたしの生年が一九四八年になっていたのだ。
これだと渡辺一考さんや山口雄也さんと同世代になってしまう。考えるだにおそれ多い話である。たぶん対談中に「スキゾ/パラノ」などとレトロな話をしたので、週刊読書人の担当の方は「この人は相当年配なのだな」と誤解したのではなかろうか。
しかしあえてゲラに赤字は入れなかった。心中ひそかにうれしかったからである。なぜうれしかったかというと、わたしの私淑する種村季弘もやはり生年を誤植されたことがあるからだ。
いかにもタネムラ的な誤植であるなあと当時「ですぺら」でも話題にした記憶がある。まさか十数年後に自分も同じ目にあおうとはそのときには夢にも思わなかった。種村とわたしは何から何まで違う人間だが、生年を誤植されたという一点においては共通している。うれしくなるのも無理はなかろう。