『手招く美女』


 
世間ではとうに『マゼラン雲』とか『ホフマン小説集成上』とかが出ているというのに、今日ようやく『手招く美女』のページを開いた。最近の国書の刊行ペースについていくのは老残の身にはなかなかハードである。

巻頭の「手招く美女」はむかしむかし牧神社の『こわい話 気味のわるい話』で読んだことがある。今回久しぶりに再読して、「あれれこんな話だったっけ」とちょっととまどった。

たとえば平井呈一訳で読んだ人は、おしまい近くで警部が「腸詰みたいにブヨブヨしたもの」を見つけて「うわー!」と叫ぶシーンを覚えておられると思う。でも今回の新訳では腸詰は出てこない。ブヨブヨもしていない。出てくるのは「大きい粒粒 (つぶつぶ)のあるプディング」である。幸か不幸かプディングといわれても、プリンと違うことを知っているだけで、うまくイメージが浮かばないので、ショックもよほどやわらげられる。

それから警部も「うわー!」とは叫ばない。「ああ!」と言うだけである。警部が「うわー!」と叫べば読者もいっしょに「うわー!」と心の中で叫ぶ。だが「ああ!」には「ああ、やっぱり」みたいなニュアンスが感じられる。

これでもわかるように新訳は旧訳より登場人物の感情の起伏が穏やかである。たとえば旧訳で「それなのに、かれは今日はじめて、この女に結婚の申込をしなくてよかったと、そのことを心から感謝したのであった」となっているところは、新訳では「それでも、そうしなくて良かったと感じたのは今が初めてだった」とサラリと流している。「心から感謝」はしていない。オトラント城の登場人物に「シェー」とか「ムハハハハ」とか言わせるような平井翁の癖がここでも出たのだろうか。

それはともかく、そのせいかどうか、旧訳はいかにも怪談そのものという感じだったのに比べて、新訳から感じられるのは、むしろ一人の男と三人の女の心理劇である。

一人の男とは主人公ポール・オレロンで、ユングのある本の邦訳題名を借りて言えば「人生の午後三時」にいる。三人の女の一人目はその女友達エルシー・ベンゴフで、名前の響きと太ってそうな体形から考えるとスラヴ系だろうか。主人公の保護者役をかって出るような世話焼きでおせっかいなタイプである。二人目は主人公の書きかけの小説のヒロインであるロミリー。主人公とエルシーの間にできた精神的な娘ともいうべきキャラクターである(というのは、この名はオレロンとエルシーの合成みたいな気もするから)。そして三人目は、主人公の住む家に憑いている——何といおうか、邪悪なものである。

こんなふうにキャラクターの布置が決まると、あとはフランス古典悲劇のように、あるいは詰将棋のように、作者が最善手を指し続けるかぎり、なるようになる、というか、なるようにしかならない。登場人物の意志はあってなきがごとくである。

その点では『死都ブルージュ』にちょっと似ているけれど、『ブルージュ』が女二人(+都市) 対男一人だったのに対し、『手招く』は女の数が一人増えていて、それだけ心理の綾のインタープレイが込み入ってくる。たとえば主人公がまず最初は気に入っていたロミリーにうんざりするところ。これは都筑道夫の「阿蘭陀すてれん」を連想させて、さてはエルシーなるものも一種の霊能者であったのかとも思わせる。今回の新訳ではそこらへんを一番堪能した。これは旧訳ではまったく感じられなかった。