ヴァージニア・ウルフを讃えて(1)

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 むかしちくま文庫で出た『ヴァージニア・ウルフ短篇集』が大幅増量されて帰ってきた。嬉しいことではないか。ウルフの短篇世界にどっぷり浸かれる機会がまた巡ってきたとは。

 ボルヘスや澁澤には何らかの偏愛の対象がある。その対象は物すなわちオブジェであることもあれば、無限とか円環とかの概念であることもあり、作家や作品であることもある。いずれにせよ偏愛するものがあるからこそ、それを通して世界とつながっていられて、また偏愛対象のコレクションという形でアンソロジーが編めるのだろう。

 ところがヴァージニア・ウルフは、あるいはアンナ・カヴァンやフランツ・カフカは、あるいは左川ちかは、そんな偏愛の対象をおそらく持っていない。好きとか嫌いとかいうフィルターを通さずに、ただ世界が目に映る、もしくは心に映るだけだ。

 それを端的に示すのがこの本のなかの「堅固な対象」という短篇で、これはある種のオブジェ (英語だと object ) のコレクションの話なのだが、コレクターの澁澤的幸福感はここにはない。ここにあるのはスティーブン・キングの『トミーノッカーズ』を思わせるようなホラー感である。世界と関係を結ぶのではなく、世界の異質性を際立たせるためのコレクション。

 あるいは「壁の染み」。壁の染みの正体は最後の一行で明かされるのだが、そのときの突き放されるような感覚、世界から拒絶されるような感覚は、他では得がたいものだけれど、デジャブのようにわれわれの心に突き刺ってくる。カフカと同じく多くの友人に恵まれているにもかかわらず孤独にペンを走らせる作家の姿が目に浮かぶ。

 あるいは「憑かれた家」。ウルフの語りにおける視点の不思議さについては、つとにエーリッヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』の一章で分析しているが、この短篇ではそれが最高度に堪能できる。この人の目はどうなっているんだろう。ルドンが描いたような巨大な単眼か、それとも『悪魔くん』に出てくるような百目なのか。いやおそらく目でないもので見ているのだろう。

 ウルフといえばとかく「意識の流れ」とか「ブルームスベリー・グループ」とか「フェミニズム」とかの紋切り型で片づけられるが、それで終わるようなものではない。汲めども尽きない豊饒性を持っている作家なのである。