「なんなら」新用法の起源

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 今日は目先を変えて基本日本語シリーズ第一弾(第二弾はたぶんない)。前にも一度取りあげた「なんなら」新用法の話である。

 まずは旧来の用法をおさらいしておこう。

 「なんなら」は伝統的には、「明日は雨だ。なんなら賭けてもいい」「俺は潔白だ。なんなら証拠だって挙げられる」「なんなら私の方からお訪ねしますけれど」みたいな感じで使われる。つまり副詞「なんなら」は機能的には接続詞に近く、非現実的な事柄を語る節を導く。ドイツ語やスペイン語なら動詞が接続法をとるシチュエーションで使われるといってもいい。ここで「非現実」というのは、これらの例において、話者はハッタリを言っているだけで、実際に賭けたり証拠を挙げたり自分から訪問したりする気はないからだ。英語でいえば「なんなら」= "if (absolutely) necessary" みたいな感じである。

 ところが最近は、前にも引用した島田泰子教授の論文「副詞「なんなら」の新用法」から例をとると、「ぶっちゃけ6も好き、なんなら7も好き」とか「何が起こっているか気づいていなくて、なんならむしろ、自分ではよく聞き取れたなくらいに思ってたんで」みたいな風にも使われる。つまり

 1. 従属接続詞的な性格が薄れて、等位接続詞的になる。(ドイツ語でいえば定形後置から定形正置になるイメージ)

 2. 「なんなら」に続く文の非現実性がなくなり。「なんなら」の前にある文と同程度のリアリティを持つ。

つまり「あえて言えば」というようなニュアンスで使われる。英語の”I would say” みたいなものである。これもやはり動詞の形は接続法(仮定法?)なのに、ほとんど話法が意識されていない。東西軌を一にしていて面白い。

 ここでようやく本題に入るが、最近必要があって種村季弘の『畸形の神』を読んでいたらこの「なんなら」の新用法が出てきて「うおっ!」と思った。すなわち上の画像である。しかも驚くべきことに、話し言葉ではなく文章語の中で使われている。この本が出たのが2004年だから、遅くともとその頃には新用法の萌芽があったことになる。

 「すべからく」の新用法を確立したのは唐十郎だという澁澤龍彦説をここで思い出さざるをえない。澁澤スクールには新用法を確立するのが得意な人が集まっていたのだろうか。

 それにしてもこの『畸形の神』は種村白鳥の歌とでもいうべき傑作なのに、あまりにも不当に閑却されている気がする。タイトルに差別用語らしきものが含まれているせいだろうか。なんなら改題してもいいから再刊してもらいたいものだ。