胡桃の中の世界

 
澁澤龍彦はあまり人間という感じがしない。古生代の虫を封じ込めた琥珀。蜃気楼を吐く大はまぐり。スカラベに埋められた糞玉。そういうたぐいのものが、幾千年の時を経てひょんなことから人の形をとり、さまざまな言葉を紡ぎだし、あげくみずから珠を呑んで、ふたたび元の姿に戻った。そんなふうに思えてならない。

身辺雑記や幼少時の思い出など読んでも、たいへん失礼ながら、「うまく人間に化けているなあ」みたいな感想がまず先に浮かんでしまう。今の人は知らないかもしれないが、かつての澁澤龍彦は四十を越えても二十代のころと全然容貌が変わらず、若返りの魔術を会得しているのではないかと取沙汰されたものだ。そのうち本人も「アッまずい、これでは俺の正体がばれてしまう」と思ったのかどうか知らないが、外見も老けるようになったけれど、それもほんのわずかなものだ。

――こう書くと西洋の人、あるいは西洋かぶれの人は「何をバカなことを言っているんだ」と思うことだろう。しかし、たとえば石川淳や幸田露伴の作品をはじめとして、江戸の怪随筆、「聊斎志異」などの中国怪談、あるいはさらに遡って東洋の神仙思想に触れた人ならば、ごくあたりまえな発想であることがわかってもらえると思う。

いやむしろ話は逆なのであって、高校生の頃から同時代的に澁澤の新刊を追いかけてきた身からすれば、いま挙げた石川淳その他もろもろは、すべて澁澤の文章によって啓示されたものであった。『東西不思議物語』あたりからはじまった東洋と西洋をつなぐ橋、その架け橋を渡って自然に自分も向こう側(あるいはこちら側?)に導かれたのだった。

それはともかく、澁澤とはそういう存在なのだから、その精華集を編むとすれば、コンパクトであればあるほどいい。珠に近いものであればあるほどいい。そういう形がいちばん、琥珀であれ大はまぐりであれ糞玉であれ、かれの本来の姿を偲ぶよすがになるだろうから。少し前に東雅夫さんによって編まれた『澁澤龍彦玉手匣』や今回の『ドラコニアの夢』はさしずめその理想形といえるだろう。

これから世の中はどう変わっていくかわからない。でもどう変わろうと、澁澤の文章は(ちょうど乱歩と同じように一部の人たちにプークスクスと笑われながらも)読み継がれていくものと思う。