『怪奇礼讃』礼讃

怪奇礼讃 (創元推理文庫)

怪奇礼讃 (創元推理文庫)

創元推理文庫の怪奇幻想部門は、かって背中に帆船マークがあったころの伝統が健在で、いまだ粒よりの名作を送り続けている。実に頼もしい存在ではあるが、それでも昨今の出版状況はいかんともしがたいらしく、二年もすると版元在庫から消えてしまう。
ところがここにわが鍾愛する『怪奇礼讃』が新カバーで復刊された。やれうれしや。どうせまた数か月もすると店頭から消えてしまうのだろうけれど。

美術の世界にラファエロ前派という言葉があるが、ここに集められているものの多くはE.A.ポー前派ともいうべきものである。効果を狙ったあざといデヌーマン(結末)は求めず、知的な構成にも重きを置かず、小説が物語であったころに先祖がえりをしたような作品群である。
それはちょうど乳母が寝物語におとぎばなしを語るようなものだ。眠りをさまたげぬような起伏の少ない話を淡々と語っていくうち、子供はいつしか寝入ってしまう。子供が寝ついたところで乳母は話をやめる。ここの収められた短篇はたいてい、そんなふうな感じの、夢とうつつの茫としたあわいに溶けて流れていくように終わる。
たとえば本書のなかには小泉八雲の「むじな」にそっくりなものがある。しかし本家「むじな」とは違って、「こんな顔だったかね」というセリフだけで幕を閉じる。どんな顔だったのかはまったく説明されない。ましてや提灯の明かりが消えるなんてことはない。

ラストを飾るのは「のど斬り農場」。これが名作であることに異存はないが、「恐い話」というのとはちょっと違うと思う。むしろ奇妙な味というのに近い。本来なら二十ページくらいを費やして語られるはずの話が、途中から妙に駆け足になり、七ページでブチッと切れる。
それはちょうどこんな感じだ。たとえば夏休みに田舎帰りをした先で、年上の従兄弟が、「こわい話を聞かせてやろう」といって怪談を語りはじめる。ところが話が佳境に入らない前に、語り手みずからが、「うわあ、恐いよ、恐いよう!」と叫んでどこかに逃げていってしまった!
「のど斬り農場」にはこんなふうな、読者より先に語り手自身が自分の話を恐がって逃げてしまうような趣がある。こんなのは前代未聞というかおそらく唯一無二であろう。「のど斬り農場」という扇情的なタイトルをまず最初にもってきているのが、語り手のあらかじめの恐怖を反映していて実に効果的である。