『殺す・集める・読む』復刊に寄せて

 
「推理小説はなぜこの世にあるのか」とか、「現代社会において推理小説はどんな意味を持つのか」とか、「なぜ推理小説は一般大衆に愛好されるのか」とか、そういうたぐいの疑問に、「犯人は誰か」とか「どうやって殺したか」とかの謎よりも強くひかれる人々がどうもこの世にはいるらしい。にわかには信じがたいことだけれど、ジークフリート・クラカウワーの『探偵小説』やエルンスト・ブロッホの「探偵小説の哲学的考察」(『異化』所収)といった、推理小説ファンの目からするといったい何を相手に戦っているのかさえ判然としない一群の文章の存在がそれを証している。

そうしたものに対しては、余計なお世話である、とミステリファンならば思うであろう。だがちょっと待ってほしい。毎日毎日浴びるように人殺しの話を読んだり、TS社やH書房みたいに毎月毎月浴びせかけるように人殺しの話を出したりするのは、虚心に見ればかなり異様な眺めには違いなくて、事実、エドマンド・ウィルスンのように、身近な友人たちが次々にそうした人間モドキみたいなものに変わっていくことに対して嫌悪感を隠さない人もいる。だから、いったいオレが毎日読んでいるものは何なのだろうか、とたまには自問してみるのも悪くはないのではなかろうか。たとえば本書のような本を読むことによって。

地上の事物は神の造ったものだから、そこには神の徴(しるし)が刻印されている、とパラケルススが考えるのと同じように、ある特定の文化のなかで生まれた推理小説にはその文化の刻印すなわち徴が見受けられる、と考えるのが本書の基本線であるように思う。そうしたアプローチでは作者の超時代的な個性は無視とはいわないまでも軽視され、作者という存在は時代精神の操り人形めいたものになるのはいかんともしがたい。たとえばカイヨワの社会学的推理小説発生論に対するボルヘスの不満もおそらくそこにある。

しかし、しかしである。「世界は舞台」という観点からは、どんなものも何らかの役を演ずる役者にすぎない。そしてそこでは「自分は何の役を演じているのか」ということは必ずしも自明ではない。事実本書では、探偵役を演じているとばかり思われていたものが実は犯人役だった、というような推理小説そこのけの意外性が随所に見られる。

ということで本書は、推理小説に閉じこもるマニアには、推理小説の外の文化も推理小説と同じくらいに魅惑的であることを、そして推理小説を蔑む人には、推理小説の外の文化も推理小説と同じ程度にグロテスクでナンセンスであることを教えてくれる得がたい書であると思う。