騎士団長殺し第二部読了

第二部も読み終わった。エリアーデの「ホーニッヒベルガー博士の秘密」や稲生平太郎「アムネジア」に通ずるような面白いところがあったので忘れないうちにメモしておこうと思う。

その面白いところというのは、一言で言えば時空のゆがみで、いまこのブログを読んでいるなかにはこの小説を未読の方もいらっしゃるだろうからその骨組みだけを示すと、Aは行方不明になったBを捜すために超自然的存在C(イデア)とD(メタファー)の助言を乞う。彼らの助言に従って神話的冒険をなし終えたAの前にBが帰ってくる。AがBにどこへ行っていたかと聞くと、冒険は冒険ではあるけれど、本質的には危険でもなんでもない一種のいたずらを行っていたことが明らかになる。
ということで一応はめでたしめでたしになるのだが、読者には謎が残る。そのひとつはAの冒険の意味はなんだったかということ。もしBの失踪時の行動がBの説明のとおりなら、Bは遅かれ早かれ無事に発見されるだろうから、Aの(ある意味で生死をかけた)冒険は無意味だったことになる。

二つ目は穴の底で見つかったペンギンのお守り(第二部p.242)はなぜそこにあったかということだ。もしBの失踪時の行動がBの説明のとおりなら、それがそこにあるはずはない。

おそらくAが冒険をなし終えた時点で過去が改変されたのだと思う。つまり本当はBはもっと危険な状況にあった(それを暗示するのが穴の底にあったお守りである)が、Aが冒険を終えた時点でその現実が改変され、タイムトラベラーが過去に干渉して現在を変えるように、Bの状況は無害なものに変わったのであろう。

だが本当はタイムトラベラーという比喩はまちがっている。むしろそれは、時間とか空間とかが存在しない領域(本書の言葉でいうと「イデア」)で起こった事件であるととらえるのが正しかろう。ちょうど「ホーニッヒベルガー博士の秘密」や「アムネジア」の中で起きた事件がそうであったように。そして「イデアを殺す」ということは世界に時間と空間と因果を取り戻すということでもある。

そして「メタファー」というのは時間も空間も因果律も無視してあるものとあるものを結び付ける「結合術」の謂であろう。

結合術というのは強力な武器ではあるけれど、ひとつ困った点があって、それは因果(広い意味での「物語」)を欠いているために、あたかも何も書かれていないように見える点である。種村季弘が「世の中にはこんなに本があるのに、どうしてまた新しく本を書くの」と問われて「ここには何か書いてあるように見えるけれど実は何も書かれていないのだよ」と答えたというエピソードはこの間の消息を逆説的に伝えている。

主人公は自己の資質を現実に適応させて有能な肖像画家として世の中と折り合っていたが、そのうちそれではあきたらなくなりより己の本質に近い絵を描く衝動が芽生える。だが一連の事件ののちに主人公は(イデアと、そしておそらくメタファーも殺して)ふたたび世の中と折り合う有能な肖像画家に戻る。(しかしそれがまたもやクライシスに陥るであろうことは冒頭のプロローグで暗示されている)。

こういう誰の人生にも多かれ少なかれ起こるであろうことを巧みに小説化するところに村上春樹の人気の秘密があるのだと思った。