語源を遡る人

 
またもやハイデガーと関連あるようなないような話。

言葉は日々生まれる。たとえば「真逆(まぎゃく)」という言葉。三省堂国語辞典第七版(2014年1月発行)にちゃんと載っているので、すでに定着した言葉と見ていいのだろうが、つい最近までこんな言葉はなかった。

どうして昔からある「正反対」という言葉を使わないのか、それはなんとなくわかる気がする。「せいはんたい」は六音でいかにも間延びがしているが、「まぎゃく」なら半分の三音だ。あと、「まぎゃく」の「ぎゃ」という悲鳴みたいな響きが醸し出す一刀両断感が今の人に受けているのだろう。つまり「AはBの真逆だ」と言う場合、「正反対」とは違って、AかBのどちらかを葬り去るニュアンスを持たせられる。ようするに世相というか、黒か白かを性急に分けたがる意識とダイレクトに結びついている。

ただそうしたことは今だから感じとれるので、「まぎゃく」だってそのうち何十年かたって新語感が失せてしまうと、当初の衝迫性やニュアンスは忘れられていくと思う。

言葉が生成される瞬間に立ち会うということことが大切なのはここのところで、新しい言葉が生まれるには生まれるだけの原因――原因というか意識のエネルギーがある。ところが長く使われるとそれが磨り減り忘れられ、意味さえしばしば変わってしまう。ましてや「真理」や「存在」などという何千年も前からある言葉ならなおさらだ。

それに外来語の場合は翻訳という厄介な問題がつきまとう。ハイデガーは、ギリシャ語の「ヒュポケイメノン」がラテン語で「スブィエクトゥム」(英語のsubject)と訳され、「ヒュポスタシス」が「スブスタンティア」(英語のsubstance)と訳されることを問題視している。これらは直訳といっていいのだが、ハイデガーはこうケチをつける。

ローマ的な思索は、ギリシャ語のもろもろの語が言表している事柄に対応する同等に根源的な経験をもつことなく、ギリシャ語のもろもろの語を、ギリシャ語の語彙なしに、引き継ぐ。西洋的な思索の地盤喪失性はこの翻訳から始まるのである。(『芸術作品の根源』関口浩訳・平凡社ライブラリー)

つまり(「真逆」に新語として立ち会うような?)「根源的な経験」がない限り、地盤喪失性は免れない。それを避けるためには「根源的な経験」を再構成するしかない。「非秘匿性」とかそういう妙なハイデガー用語はここからでてくるのである。

ここらへんは昔はあんまりよくわかっていなかった。なんとなく実感できるようになったのは松山俊太郎翁の講義を聴講するようになってからだから、つい最近のことである。

といっても、翁の講義にハイデガーが出てくるわけではない。松山翁も語源を遡る人だったのである。仏教の経典はインドから中国を通して日本に入ってくるときに漢訳されて入ってくる。そこにハイデガーが指摘したのと同様な問題がでてくる。この語源問題をパフォーマンスとして目の前でやられると、それはもう、料理の本を読むのとテレビの料理番組を見るくらいの違いで目から鱗が落ちる。翁の高弟(これは失礼な物言いかもしれないが御寛恕を!)高山宗東氏に『お言葉でございます』なる好著があるのもむべなるかな。