老いてますます本を買うこと

ちょっとしたきっかけがあってハイデガーに凝るようになり、木田元やスタイナーの解説書を手始めに、本人が書いた本もわからぬながらパラパラめくっている。わからないといっても、いい新訳が出ているおかげもあって、昔よりはわかる(ような気がする)。かくしてふたたび「存在の声によって呼びかけられ、〈存在者が存在する〉という驚異のなかの驚異を経験する」ことになったのだが、以下はそのことと関係あるようなないような話。

人も知るように尾崎紅葉は四十歳になる前に亡くなったが、死の直前にセンチュリー百科事典を予約購入した。これを当時丸善にいた内田魯庵は、「自分の死期の迫っているのを十分知りながら […] 高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る」と褒めている。だがどうも、逆に己の死を自覚したからこそ百科事典を買う気になったような気がしてならない。なぜか。それはいわゆるパノラマ視現象を媒介にすると話が早くなるかもしれない。パノラマ視現象とは死ぬ間際に己の全存在を一望のもとに見てしまう特異な感覚である。紅葉の場合、この感覚のうちに百学が連環し、百科事典と結びついたのではなかろうか。

死期が迫ると本が買いたくなるというのは、ひとり紅葉だけのケースではない。ある種の性向の人たちは、生涯の終わりにあたって本を買うスピードが恐ろしく加速していく。有名なのは植草甚一のケースだろう。晩年は毎年ニューヨークに何百万も持って出かけていき、ほとんど使い果たして帰ってきたというのだから尋常ではない。尋常ではないけれどその気持ちはなんとなくわかる。 きっと紅葉と同じく、生涯の終わりにあたって、本が〈存る〉ということの驚異に目覚め、ありとあらゆる本が連環して己を招くといった体験をしたのだと思う。(もっとも甚一死後に行われたインタビューでは、奥さんの梅子さんが、本を置くためにマンションをもう一つ借りたとか言って火を噴く勢いで爆裂激怒していた。そりゃまあ怒るよね普通)

それからこれはさすがの植草甚一も感嘆していたのだが、美術史家バーナード・ベレンソンの晩年の読書量にも凄いものがある。

日本でいえば、碩学と呼ばれる方々の旧蔵書が洋書店などに大量に放出された際に、一冊一冊見ていくと、そういう人たちは死の間際でも(死の間際だから?)洪水のように新刊本を買っていることがわかる。

これが極端になると、ボルヘスみたいに目が見えなくなっても身のまわりの本をバンバン増やすという暴挙に走ることにもなる。これを「何やってんのお前。バカじゃん」と嘲笑うかどうかは、〈アレフ〉を視たことがあるかないかによるのではなかろうかという気がする。『ボルヘス・オラル』で例に引かれたのが紅葉の場合と同じく百科事典というのが実に象徴的である。

ということで、「こんなに本を買い込んで一体いつ読めるのだろう」と悩むのはまだまだ若い証拠だから、たぶん安心していい。そのうちきっと、これら先達たちの轍を踏んで、「生きているうちにあと何千冊買えるだろう」というふうになっていくと思う。