ホムワトスン問題

 
まだハイデガーを読んでいるが、今回の話はどうハイデガーに関係するのかまったく不明。それというのもハイデガーの本は読んでいると様々な思考を誘発されるのだ。そう書くと何となくかっこいいけれど、まあようするに、あまりにも難解なので読みながらついつい他のことを考えてしまうのだった。

私立探偵小説に本格推理的な趣向を取り入れようとするとき、困る点がひとつある。ワトスンがいないことだ。私立探偵は孤独に夜の街を行くことになっているから、ワトスンを連れ歩くわけにはいかない。それに一人称または限りなく一人称に近い三人称が採用されるから、かれ自身が事件の記述者、つまりワトスンにならなければならない。

かくして本格風の私立探偵小説では、主人公はホームズとワトスンがヌエ的に合体したホムワトスンとして作品内に存立することになる。作品によって違うだろうがホームズ7割ワトスン3割くらいになるように思う。でもそれはときどき破綻をきたす。

たとえば『ウィーチャーリー家の女』は誰しも認める本格風私立探偵小説の名作だが、プロットの都合上、それまでホームズだったリュウ・アーチャーがあるシーンで突然ワトスンになる。他でもない、法月綸太郎が「複雑な殺人芸術」で論じている箇所である(ただし、この評論では、それは必ずしもアンフェアとはされていない)。でも仕方がないのだ。もしアーチャーがそのシーンでホームズのままであったなら、そこで話は終わってしまう。

ところがロスマクの奥さんのマーガレット・ミラーは、このホムワトスン問題に、『まるで天使のような』で水際だった解決を与えている。読んだ人なら知っているように(創元推理文庫のおせっかいな帯のおかげで、いまや読んでない人でも知っているかもしれないが)、この作品の最後の数行は、一度読んだら生涯忘れられないくらいの感銘を読者に与える。

なぜそうなるのかといえば、ホームズ7割ワトスン3割くらいのホムワトスンだと読者が信じていた探偵役の主人公が、最後の最後で、実はワトスン100%だったことを自ら暴露するのである。ガーンやられた! でもアンフェアでもなんでもない。勝手に「この人はホームズ7割」と誤解した読者が悪い。

ではホームズは不在なのか。いやいやそんなことはない。ここでは読者のあなたがホームズとなるように、暗黙裡に要請されている。つまりホームズの目でもう一度最初から読んでみろ、と促されているのだ。

最後に創元版のおせっかいな帯に関して、こちらからもおせっかいな一言。

帯の煽りを読んだ人は、これは叙述トリックものだと即断してしまうかもしれない。瀬戸川猛資が「最後の一撃」もののベストに『殺人交叉点』や『赤毛の男の妻』をあげているのを知っているならなおさらだ。

しかしこの帯自体が東京創元社編集者諸氏の一種の叙述トリックなのであって、この『まるで天使のような』は別に叙述トリックに支えられているわけではない。それらしきものもないわけではないが、恐ろしく技巧的なこの作品のなかで、補強手段のひとつになっているにすぎない。

だから叙述トリックに食傷した人も、この稀有な作品を敬遠しないほうがいいと思います。