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 この本は訳者解説でも仄めかされている「ハイデガー対イタリア・フマニズム」の書として読むと面白いと思う。最初のうちこそ、「企投(エントブルフ)」とか「世界未決(ヴェルトオフェン)」とか、いかにもそれらしい用語や、ユクスキュルを援用*1したりとか、いかにもハイデガーの後塵を拝するといった感じなのだが、それがだんだん変になっていく。
 
 本書に頻出するタームに「隠れもなき真実(ウンフェアボルゲンハイト)」というのがある。これはもともとハイデガーがギリシャ語の「アレーティア(真理)」を語源に遡ってドイツ語化した用語で、ハイデガー圏では「非秘匿性」と訳される。
 
 この「非秘匿性」は、G.R.ホッケの『迷宮としての世界』にも終わり近くに出てくる。マニエリスムを論じるにあたってのホッケは、この「非秘匿性」の概念をハイデガーの、たとえば『芸術作品の根源』*2にストレートに寄り沿ったかたちで、まあいわばハイデガーに拝跪するかたちで援用している。
 
 だが本書における「非秘匿性」(「隠れもなき真実」)の使い方は正直いってよく理解できない。なんとなくパロディー化している(ハイデガーをおちょくっている)ような気もチラチラしないではないが、気のせいかもしれない。
 
 だが結語はイタリア的情念丸出しのウツボツたるパトスによって書かれていて、さすがにヴェンデッタとかマフィアの国の人は恐いなあと思わせるものがある。敵は実はデカルトではなかった。「ひとりの〈総統(フューラー)〉の時代に接続する存在(ザイン)の権威的代弁者ならいざ知らず(p.327)」などというフレーズは、反感を催すほど露骨なハイデガー批判というかアテコスリである。ちなみにこの本の出版当時ハイデガーはまだ存命で、絶大な影響力を持っていた。
 
 もっとも反ハイデガー的なのは、この本の企投(エントヴルフ)そのものである。それはヴィーコ的な哲学の復権であり、イタリアの伝統に棹さす哲学の復権でもある。

 確かに訳者解説にあるように、「反デカルト的」なる言葉は今では陳腐になったかもしれない。だがそれと限りなく意味が似ている「ヴィーコ的」であることは――ヴィーコを今哲学することは――つまり、この本のような内容を「哲学」として受容することは、まだまだ抵抗が大きいのではなかろうか。それは一旦死に絶えてしてしまったイタリアの哲学伝統を蘇生させることであるから。

 この本が今なお古びていないとすれば、その肝はこうした伝統蘇生を踏まえた上での〈哲学という行為〉の問い直しにあると思うのだがどんなもんだろう。

 何はともあれ、ハイデガーの新訳が次々現われ、ヴィーコの主著『学問の方法』『イタリア人の太古の知恵』『新しい学』などが優れた翻訳で出揃い一応の浸透を遂げた今になってこの本が訳出されたことは、タイミング的にラッキーだったと思う。おかげで拙豚のようなズブの素人にも、ヴィーコ対ハイデガーのプロレスマッチとして楽しめるようになったのだから。もし原著刊行から間を置かずに訳出されていたら何がなんやらわからなかったことだろう。

*1:ハイデガーとユクスキュルのかかわりは木田元『ハイデガーの思想』90ページあたりを参照

*2:平凡社ライブラリーに訳あり