Three is the perfect pair

 
 中井英夫が一九八五年に発表した『月蝕領崩壊』は、がんに侵された〈自らの分身〉Bを看病するA(著者自身)の日記である。そのまえがきにこうある。「どことも知れぬ病院内で、もはや記号にすぎぬAとBの二人が、得体の知れぬ何かに翻弄されるという、これは一種の抽象小説としてお読みいただければ幸いである。」この「幸いである」には、むろん「とても現実とは思えない。現実にしては惨すぎる」という含みがあるのだろう。

 そして、この『神の聖なる天使たち』もまた、「得体の知れぬ何かに翻弄され」る二人の男、すなわちジョン・ディーとエドワード・ケリーの物語である。ケリーは従来ディーの助手あるいは詐欺師としてディーの名声の陰に隠れた存在だったが、本書ではディーと同等の重要性をもって描かれている。
 
 ジョン・ディーは天使に対してはコミュ障なので、直接天使とコンタクトがとれない。そこでケリーという媒介――水晶玉から天使の言葉を読み取れる人――が必要となる。このケリーを通して天使から二人のもとに圧倒的な質量の情報が流れ込んでくる。ここらはディックのヴァリスを彷彿とさせるが、ヴァリスと違うのは、その受け手が一人ではなく二人であることだ。

 本書のとてつもない面白さは、この「受け手が二人」というところにかなり負っていると思う。もしディーが一人で天使と交信していたら、たぶんこれほど手に汗握る展開にはならなかっただろう。二人いることによって、天使との交信は単なる幻覚や妄想として片づけることができなくなる。ケリーの前景化によって見晴らしが全然変わってくるのだ。
 
 かくて二人は天使と交信するのだが、水晶球に現れるものは天使だけではなかった。本書の228ページにはこうある。
 

水晶のなかに現れるのは単に天使たちの姿だけではなく、鳥や獣、炎、印章、夥しい数の文字や方陣などが顕現し [……] 四百数十年後に記録を読むわたしたちの面前に、それらはまざまざと蘇える。

 
 ここらは『アンチ・オイディプス』を連想させる。精神分析、経済学、政治思想、言語学、哲学、文芸評論、疑似科学などがグジャグジャに「顕現」するあの本もやはりジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという二人が(たぶん変なものを受信して)できた書物であろうからだ。ここでジョン・ディーにあたるのがドゥルーズで、エドワード・ケリーにあたるのがガタリか。というのも、二人の共同作業について、ドゥルーズはこんな風に書いているから。「彼のアイデアはデッサンであり、ダイアグラムでさえある。私のほうはいつも概念に興味をひかれるのだ」
 
 だが天使とのかかわりは、ちょうど『月蝕領崩壊』のAとBが「得体の知れぬ何か」に翻弄されるように、ディーとケリーの運命を激変させていく。高名な学者であったはずのディーはみるみるうちに尾羽打ちからし、逆に素性の怪しいケリーは錬金術師としての名声を確立していく。天使の言葉も変になっていき、ついには二人に夫婦交換をするように命ずるまでにいたるのだった。この、超自然の探求が卑俗への道に通じてしまうというクラインの壺的な構造は、かの『アムネジア』と共通するものを持っている。
 
 あだしごとはさておき驚天動地の本であることは間違いない。強く一読をお薦めする次第である。