後期春夫問題

 
 世に後期クイーン問題というものがあるように、後期春夫問題というのもまたある。何かというと、初期作品に心酔したファンが後期の作品に接すると、何ともいえずモニョモニョした気持ちになるという問題だ。

 才能の枯渇? いやいや、臨川書店版定本春夫全集は二段組(だったと思う)で全三十六巻という凄いボリュームだ。枯渇どころの騒ぎではない。ならば粗製濫造? いやいや、粗製とか濫造とかいう表現から連想されるあわただしい感じ、やっつけ仕事的な感じは、いかに後期作品であろうと薬にしたくともない。むしろ頑固なまでのマイペースに鼻白むといったほうが実感としては近いのではないか。

 こうした後期春夫問題を剔抉した評論に須永朝彦氏の『わが春夫像』がある。氏の評論活動のなかでも出色の文章だと思う。ひときわ癖のある版元から出たせいか、今では入手が困難になっているのが惜しまれる。

 足穂の作品群は星座であると種村季弘は言ったが、その伝でいくと、ボーヨーとして全体像のつかみがたい春夫作品は星雲であるのだろう。とめどなく膨張拡散しながら希薄化していく星雲。そこに緊張感とか集中力とかいったものはあまり見られない。作品で扱われた題材の多彩さ幅広さだけを見れば百科全書派と称しても差し支えないようなものだが、そう称するのは躊躇される。なにぶんにもつまみ食い感が強すぎるから。

 かくの如く、春夫作品にオマージュを捧げようとすると、まずは悪口からはじめるしかない。ちょうど先に触れた須永氏の文章のように。あるいは稲垣足穂の追悼文のように。ようするに悪口がそのままオマージュになってしまう稀有な作家なのだ。

 今回出た『たそがれの人間』は、こうした後期春夫に参入するための得難い手引きであると思う。定番のアンソロジーピースはあえて避け、ほとんどの人が見たこともないような春夫ワールドへ人を誘う魔性の書だ。

 ここに収録された幽霊屋敷や稲垣足穂を扱った文章みたいに、同じテーマをくりかえすうちに、だんだん鬆(す)が入ったようになっていく文章は実にすばらしい。(けして皮肉ではありません。為念。一見悪口にしか見えないかもしれませんが、そうとしか言いようのない魅力があるのですよ。)

 おお、こんなことを書いているうちにもっと春夫作品を読みたくなってきた。といっても全集の殺風景な版面はちと味気ないから、安い初刊本を探しに古本屋に行こうか。